ノンテクニカルサマリー

階層ベイズ・アプローチを用いた非均質的エージェントによるインフォーマルな社会的学習の分析

執筆者 佐藤 正弘 (東北大学)/太田 塁 (横浜市立大学)/伊藤 新 (研究員)/矢野 誠 (理事長)
研究プロジェクト 市場の質の法と経済学に関するエビデンスベースポリシー研究
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

法と経済プログラム(第四期:2016〜2019年度)
「市場の質の法と経済学に関するエビデンスベースポリシー研究」プロジェクト

他者の言動やその結果を観測することで行われる学習を社会的学習という。人々は、他者の言動等の情報を正確に伝達することを目的とする仕組み(例:新聞記事や公統計)からも学習する一方、それよりもはるかに幅広い機会を捉えて多くを学ぶ。例えば、周りの人が特定のガジェットをどのように使っているか、服をどのように着こなすか、新しい商品やアイデアにどう反応するか、などである。

本研究では、このように、他者の言動等の情報の伝達を目的としてつくられたわけではなく、したがって、不正確で断片的な伝達の仕組みを、インフォーマルな学習の仕組み(informal learning device)と呼び、それが私的情報を社会全体に拡散させる上でどのような役割を果たすのかを検証する。中でも、こうした仕組みによる社会的学習が、社会を真実に導く上で生産的な役割を果たし得るか、人々の間の多様性はこの過程に貢献するのか、といった問いに取り組む。

そのために、本研究では、日本で2013年末に発覚した冷凍食品の農薬混入事件を取り上げる。もし発覚後に問題企業の食品を消費した人数の全国合計(及び健康被害の発生件数)がわかれば、健康被害の発生確率は人々に容易に推測できるが、現実にはそのような数値は公表されておらず、公表されたとしても企業が信頼を失っている状況では数値の信憑性も疑われる。しかし、そのような状況においても、人々はインフォーマルな仕組み――ここでは、訪れた店先で個人が感じた製品の売れ行きを見て学習する。そこで、本研究では、ローカルな小売店舗での品揃えの観測を通じて、人々が健康被害の発生確率を学習し、製品の購入を再開する過程をモデル化し、企業の売上回復にインフォーマルな社会的学習がどのような役割を果たしたかを検証する。

具体的には、まず、計680,000製品以上の製品バーコード、常時50,000人以上のモニターの購入履歴を記録したスキャナー・パネルデータを用いて、期間中の冷凍食品の購入頻度が高かった100人の消費者が訪れた各小売店での販売製品のリストと価格の推移を復元した。これらのデータを用いて、消費者一人ひとりが、自分が訪れた小売店の商品棚の状況から当該製品の売れ行きについて主観的な認識を持ち、それによって健康被害が起こる確率についての信念を更新するベイズ学習モデルを推計した。社会的学習以外の要因を制御するため、製品価格への感応度、製品重量への感応度、個人が感じる製品の品質や好み、健康被害への感応度、健康被害に対するリスク態度、新聞記事などの公開情報からの印象等の影響とそれを忘却する度合いを表す変数もモデルに組み込み、階層ベイズ推計を通じて、個人レベルのパラメータまでの推計を行った。

推計の結果、第一に、期間中に問題企業の製品の購入を再開した消費者(以下、「再開者」)は、そうでない消費者(以下、「非再開者」)と比べ、インフォーマルな仕組みがもたらす情報への感応度(社会的学習の強度)と、過去の公開情報から蓄積した印象を忘却する度合いが平均的に高いことが分かった(表1)。第二に、それらの度合いについて、再開者の間の多様性は非再開者より大きいことが分かった。これは、図2の散布図からも明らかである。

これらの推計結果を考慮すると、①売上回復の過程においては、インフォーマルな仕組みによる社会的学習が一定の役割を果たしており、また、②こうした社会的学習においては、学習者が多様であることが貢献していると考えることができる。

こうしたインフォーマルな仕組みによる社会的学習は、新型コロナウイルスの感染拡大の過程を含む、集団における生活様式や製品・技術、意見やアイデアの伝搬のさまざまな側面に影響を与えていると考えられる。人々は、行政機関やマスメディアを通じて伝えられるフォーマルな情報だけでなく、ふだん利用するスーパーやコンビニの混雑状況、SNSに投稿される知人の旅行や外食の写真などから、新しい生活様式の有用性や感染リスクを学習している。そしてそうした先行者の行動が後続の学習者の行動に影響を与えることで、集団全体における伝搬の行方が左右される。高リスクの行動から感染確認までに時間的遅滞を伴う感染症の伝搬過程にあっては、学習の過程は一層複雑で制御が困難なものとなる。今後、さまざまな分野において、こうしたインフォーマルな社会的学習の果たす役割の解明が望まれる。

表1 購入者と非購入者の個人レベル・パラメータ(一部)
表1 購入者と非購入者の個人レベル・パラメータ(一部)

“Non-returners”は、推計期間中(2014年4月〜2015年12月)に問題企業の製品の購入を再開した消費者(非再開者)、“Returners”は再開した消費者(再開者)、 “Early-returners”は、購入者の中でも2014年12月末以前に購入を再開した消費者(早期再開者)を指す。上記(A)において、商品棚の観測からの社会的学習の強度を表す個人レベル・パラメータ\(κ_n\)は、非再開者の平均よりも再開者の平均の方が大きく、早期再開者の平均はさらに大きい。また、(B)において、公開情報からの負の印象を忘却する度合いを表す割引率の個人レベル・パラメータ\(δ_n\)も、非再開者の平均よりも再開者の平均の方が大きく、早期再開者の平均はさらに大きい。

図2 購入再開時期と個人レベル・パラメータ(一部)の対応
図2 購入再開時期と個人レベル・パラメータ(一部)の対応

散布図は、各消費者が推計期間中に初めて問題企業の製品を購入した週と、各個人レベル・パラメータ(\(κ_n\), \(δ_n\))との対応を示している。早期に購入を再開した個人の方が、両パラメータとも幅広い水準に分布している。特に\(δ_n\)については、一部の早期再開者が群を抜いて高い割引率を持っている