ノンテクニカルサマリー

福祉の拡充とタクシー需要の減退:タクシー運転者の賃金停滞の背景

執筆者 橋本 由紀 (研究員)/小前 和智 (東京大学)
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

その他特別な研究成果(所属プロジェクトなし)

Maas(Mobility as a Service)に象徴される新しいモビリティサービスの進展は、交通サービスの枠組みを超えて消費者の生活効率や効用を高めることが期待されている。その一方で、タクシー運転者からは、新たな技術やサービスによって、近い将来に自身の雇用が侵食、代替されてしまうのではないかとの戸惑いの声も聞かれる。こうした意識の背後には、バブル景気崩壊以降長期にわたって低迷するタクシー産業の状況が、ライドシェアや自動運転などによってさらに悪化するのではないかという危機感があると考えられる。

これまでも、タクシー運転者の雇用環境や処遇の悪化を分析した研究は少なくないが、本研究のように、新しいモビリティサービスの影響や交通政策の外で生じた要因を視野に入れた研究は存在しない。本研究では、既存研究が挙げている具体的な要因(例えば、タクシー運賃、地域の交通インフラ、2000年代の規制緩和とその後の再規制など)に加え、交通政策の埒外にあった福祉政策がタクシー産業に及ぼした影響に着目し、長期的なタクシー需要の減少や賃金の停滞を説明する。

本研究ではまず、「賃金構造基本統計調査」の個票から、1990年以降のタクシー運転者の処遇(賃金)の変化を詳細に観察した。タクシー運転者の賃金は、1990年代中ごろまでは、特別給与(ボーナス)に、日本的雇用慣行の年功的な特徴も存在していたものが、1990年代後半以降は、特別給与の年功性はほぼ消失し、特別給与が支給されない運転者も過半数を超えるようになった。この事実は、タクシー運転者の給与において歩合給の要素が高まったことを指摘する先行研究とも整合的である。そして、近年のタクシー運転者の賃金は、景気との連動を強めて、年収250万円前後で微増と微減を繰り返している。

次に、「ハイヤー・タクシー年鑑」などから作成した1990年から2015年までの5年ごとの都道府県パネルデータを用いて、タクシー需要の長期的減退を説明する要因を検討した。具体的には、日本の高齢化と福祉政策の拡充をその要因として提起し、先行研究で議論されてきた要因を加味したうえで、自家用福祉車両の増加がタクシー需要に及ぼす影響を推定した。分析の結果、自家用福祉車両数の増加がタクシー需要を低下させ、タクシー需要の低下はタクシー運転者の賃金の低下にまでつながってきたことがわかった。具体的には、福祉車両数の10%の増加はタクシー輸送人員を0.9%、営業収入を1.3%減少させる。また、営業収入1%の減少は、運送収入に比例した歩合制の賃金構造を反映し、タクシー運転者の賃金を1.3%減少させていた。

さらに、自家用福祉車両数がタクシー需要に与える影響の大きさは、地域の高齢化率によって異なる点も明らかになった(図)。すなわち、地域の高齢者率が10%程度であれば、自家用福祉車両が増えてもタクシー需要の減少は緩やかだが、地域の高齢者率が30%まで高まると、自家用福祉車両の増加はタクシー需要を大きく減少させる。

もしタクシーが、高齢者に多い移動困難者のドアツードアの輸送サービスを中心に担うことができていれば、地域の高齢化がタクシー需要を高めることもあったかもしれない。しかし実際には、バスやタクシーによる公共交通機関による移動を補完する目的で認められた自家用輸送が、移動困難者の個別輸送ニーズの大部分を満たしている。すなわち、一部のタクシー需要は、急増した自家用福祉車両による輸送サービスによって代替されてしまったと考えられる。

タクシーの需要が、タクシー産業の枠外で起こった変化の影響を受けて低下したとすれば、売上や賃金を高めようにも、タクシー事業者や個々の運転者の自助努力だけでは限界があろう。自家用福祉車両の急増は、タクシー産業が直接コントロールできる領域ではない。交通政策の所管の埒外にあった福祉政策によってタクシー産業の事業環境が変化し、タクシー需要や運転者の賃金の低下が生じたのであれば、福祉の領域までを包含したより広い視点で、タクシーの位置づけや運転者の雇用の在り方を再考する必要があるだろう。

図:タクシー需要(輸送人員)