ノンテクニカルサマリー

日本の雇用システムの歴史的変遷―内部労働市場の形成と拡大と縮小―

執筆者 中林 真幸 (東京大学)/森本 真世 (東京大学)
研究プロジェクト 労働市場制度改革
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

人的資本プログラム(第四期:2016〜2019年度)
「労働市場制度改革」プロジェクト

本稿は、産業革命期から現在に至る長期の経済発展のなかに雇用システムを位置づけることを目的とする。過去1世紀あまりの経済成長に対する労働投入の貢献は、農業部門から非農業部門への労働移動、教育の普及と向上による一般的な技能の蓄積、そして産業特殊的もしくは企業特殊的な技能の蓄積に分解することができる。労働の部門間移動は産業革命期と高度成長期における成長の押し上げ要因となった。初頭教育の普及は産業革命期の、中等教育の普及は高度成長期の労働生産性を引き上げた。また、欧米に比べて極めて早い時期に1889年大日本帝国憲法と1896年民法によって「移動の自由」を確立した日本においては、大陸ヨーロッパ的な、労働者の移動の自由を制限することによって、雇用者に産業特殊的な技能への投資を促す法制度は存在せず、非常に高い流動性が1920年代までにおける労働市場の共通の特徴であった。

そのなかにあって、特殊的な技能蓄積のために形成された制度には二通りがあった。1つは、製糸業に見られた雇用者の私的なカルテルである。引き抜きを相互に裁定することにより、労働者の採用や育成に要する費用を支払う誘因を保った。もうひとつは鉱山業に見られた間接管理である。納屋頭と呼ばれる熟練労働者に採用と労務管理を請け負わせ、レントを支払うことにより、彼らに採用と育成の誘因を与えた。いずれも1920年代に解体に向かい、特殊的な技能蓄積の場は、特定企業における長期勤続を促す制度、すなわち内部労働市場に収束し、1980年代には現業労働者にも新卒一斉採用が普及した。

こうした日本的な雇用システムは、欧米からの技術移転に依存した、拡張的(extensive)で右肩上がりの成長が続く限りは、円滑に機能した。長期勤続社員を登用する管理職の数も増え続けたからである。しかし、成長の動因が内発的な生産性向上に移り、内発的に生産性を上げられた企業とそれ以外との明暗が分かれるようになると、話は変わってくる。

例えば、閉鎖性の高過ぎる内部労働市場は、雇用創出にともなう就業機会を、新規学卒者以外の労働者に提供することを妨げる制約ともなるかもしれない。生産性の低い企業が生産性の高い労働者を、十分に活用することなく雇用し続ける結果として、雇用主と労働者のより望ましい組み合わせを妨げる可能性もある。特に、幹部への登用を遅らせる「遅い昇進」によって労働者同士を競わせる大企業の場合、その大企業の効率性が下がれば、昇進競争の途上に優秀な労働者を退蔵することの社会的な費用は大きなものとなろう。さらに、大企業が大規模な雇用整理や破綻に至れば、他企業に慣れる機会を与えられずに退蔵されてきた労働者は、市場価値としては、非熟練労働者相当として放出されることになる。彼、彼女たちの生活への破壊的な効果は計り知れない。

そうした、閉鎖的な内部労働市場という意味において「日本的」な雇用システムに問題があることは、過去30年、広く認知されるようになってきた。企業特殊的な熟練がほぼ無意味で、産業特殊的な熟練を構築していく大陸ヨーロッパは日本のモデルとはならないであろう。大陸ヨーロッパモデルを支えているのは、高度に差別的な中等教育および高等教育と、ドイツの徒弟制に見られるように、実質的に労働者の移動の自由を制限する雇用者カルテルである。後者については、日本国憲法はもとより、大日本帝国憲法に照らしても違憲であるとして、農商務省(現経済産業省/農林水産省)はその導入を見送った。

したがって、基本的な設計は、日本と同様、労働者に移動の自由を保障するアメリカ的な制度から出発せざるをえない。アメリカは、実は、超優良企業とされる企業においては、同一企業における勤続が有意に賃金を引き上げる、すなわち、企業特殊的な熟練が価値を持つ、その意味において、ヨーロッパよりも相当に「日本的」な社会である。すなわち、定性的には、ヨーロッパが労働者の権利保障に照らしても異質であるある一方、日米がさほど異なっているわけではない。日米の間の違いは、内部労働市場が重視されるか、の程度の違いである。

そうした観点から参考になるのは、大企業の内部労働市場と流動的な中途採用市場とが併存した1960年代までの日本の労働市場である。少なくとも1960年代までの日本の現業労働者にとっては、人生を賭ける職場を見つけるまでに、職ないし企業を複数、経験することは当然であった。企業特殊的な熟練の獲得に没入する前に、産業を選び、産業特殊的な熟練を構築する時間を持っていたのである。マッチングの失敗の可能性も、1980年代以降の日本的雇用よりもはるかに小さかったであろう。

そうした時代に戻るために現実に動員しうる政策としては、例えば、企業年金の3階部分の持ち運び可能性をさらに高めることが考えられる。閉鎖的な福利厚生は、企業側が労働者を退蔵する手段となっており、それを抑制する効果が期待される。くわえて、労働者の意識にとっても、積み立てた年金が持ち運び可能な資産であることは、今まで働いて来た時間が無駄ではなかった証拠として、労働者に一歩を踏み出す勇気を与えるであろう。