ノンテクニカルサマリー

長時間労働是正と人的資本投資との関係

執筆者 黒田 祥子 (早稲田大学)/山本 勲 (ファカルティフェロー)
研究プロジェクト 働き方改革と健康経営に関する研究
ダウンロード/関連リンク

このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

人的資本プログラム(第四期:2016〜2019年度)
「働き方改革と健康経営に関する研究」プロジェクト

現在、日本企業は、働き方改革の促進に向けた法的な枠組みが整備され、労働基準法改正の施行に向けた早急な対応に迫られている。中でも、長時間労働を前提とした画一的な働き方を改め、過剰な長時間労働を是正していくことは喫緊の課題であるが、今後、働き方改革を進めていく過程において改革によって意図せざる副作用が生じる可能性はないかを客観的に精査し、政策評価していくことは極めて重要といえる。副作用が懸念される1つとして、本稿では、働き方改革という外生的なショックが労働者の人的資本投資にどのような影響を及ぼすかについて分析した。具体的には、過去40年間で日本人は人的資本投資にどの程度時間を費やしてきたかを観察するとともに、働き方改革の推進により、労働時間の減少によって生じた余暇時間の増加を自己研鑽という投資の時間に振り向けているのか、また、企業は長時間労働の是正による職場でのOJTの減少をOff-JTによって補う傾向が認められるかどうかについて、2つのデータを用いて検証した。

分析からは、以下のことが観察された。まず、労働者の時間配分の変化を長期にわたって観察したところ、図に示したように、デイリーベースで自己研鑽に時間を費やしている人の割合は趨勢的に減少傾向にあることが分かった。また、年間ベースでの自己研鑽の頻度も特に2006年から2016年にかけての10年間に大幅に減少していることが確認された。自己研鑽に時間を費やす人が減少した要因としては、若年・高学歴・高所得といった人ほど自己研鑽をするというこれまでの傾向が近年になって弱まっていることや、「職場での時間外」に自己研鑽を行う人が特に2011年から2016年にかけて大幅に減少していることが関係していることが示唆された。働き方改革の機運により、早帰りが励行される職場が増えたことにより、職場に残って時間外で自己研鑽を行うことが難しくなり、自己研鑽自体を行わない人が増加していると解釈できる。

働き方改革の影響については、2016年以降に残業手続きが「やや厳しくなった」「とても厳しくなった」と回答している人が全体の3割程度存在し、この傾向は若干ではあるが年々強まっており、職場での残業手続きが厳格になるほど労働時間が減少していることが観察された。長時間労働の是正に取り組んでいる職場ほど、実際に労働時間が短くなる傾向にあることがみてとれる。この残業手続きが厳しくなった人は自己研鑽の時間を増やしている傾向がみられたが、その時間数は年間で5時間未満程度と短いことも分かった。また、働き方改革によって浮いた時間を僅かながら教育訓練投資に振り向けているのは相対的に年齢が高い40歳以上の層のみで、40歳未満の若年層は自己研鑽に時間を使っていないことも示唆された。最後に、働き方改革を推進して長時間労働是正に取り組んでいる職場ほど、企業内Off-JTの追加投資を行うという傾向はみられなかった。

本稿で得られた結果からは、日本人の自主的な教育訓練投資はこの40年で趨勢的に低下傾向にあることに加えて、昨今の働き方改革の影響により、特に2010年代以降は職場に残って時間外に自己研鑽をする人が大幅に減り、自己投資の時間が激減していることが示唆された。早帰りの励行は余暇時間の増加をもたらすが、その余った時間を自身の教育訓練投資に回す傾向は特に若年層では観察されず、将来職場の中核を担う層の生産性の低下が懸念される。

少子高齢化やグローバル化などの大きな環境変化に晒された日本の労働市場にとって、働き方改革は喫緊に取り組むべき課題であるが、その結果として労働者の教育訓練投資の機会が大幅に減ることは、将来の日本にとって大きな損害となりうる。企業は働き方改革で削減した残業代の原資を、人材投資に活用していくことが望まれる。また政府も、望ましい方向で日本の労働市場が変わっていくことを推進しつつ、改革の副作用として意図せざる影響が生じないかにも注意し、必要な手立てを補完的に講じていくことが重要である。

昨今、従来は自己研鑽として位置付けられていた職場での時間外の教育訓練時間の一部が、労働時間とみなされるべきという指針が示されるなど、職場における時間外の教育訓練の位置づけが時代に応じて変化してきている。余暇時間の増加の一部を労働者自身が職場外で自己研鑽に充てれば研鑽を行う場所が異なるだけで人的資本の蓄積には問題はない。しかし、職種によっては必要なスキルの習得には職場のインフラが必要な場合など、効率的に研鑽を行う場所が限定される場合もある。自己研鑽という名のもとのサービス残業が増加することはあってはならないが、自己研鑽の定義を過度に狭めてしまうと人的資本形成の機会を奪ってしまうリスクがある点には十分な留意が必要である。

図:自己研鑽をした人の割合(1976~2016年)
図:自己研鑽をした人の割合(1976~2016年)
データ)『社会生活基本調査』(総務省統計局)の「調査票A」の個票データ
備考)サンプルは、22-65歳の「ふだん一週間の労働時間」が35時間以上の男女(学生除く)。ここで自己研鑽とは、「学習・自己啓発・訓練(学業以外)」に該当する行動を指す。土日を含む9日間の調査期間中のいずれかの日に、「一日当たり1時間以上」「1日当たり0分超1時間未満」の時間を自己研鑽に使用した人の割合を示している。