ノンテクニカルサマリー

構造推定による通勤不効用の評価

執筆者 近藤 恵介 (研究員)
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

その他特別な研究成果(所属プロジェクトなし)

「働き方改革」においてテレワークが取り上げられ、通勤負担の軽減やワークライフバランスの改善に向けた政策議論がなされている。しかし、政策を評価する際に人々の効用をどのように計測するのかという課題が残されている。

本研究では、人々の効用という直接観測できない指標を評価するため、構造推定という手法を利用する。構造推定では、効用最大化に基づく理論モデルと実際に観測される人々の行動データを合わせることで、意思決定の構造を明らかにしていく。意思決定の構造が明らかになると、ある状況の変化によってどれほど効用が変化するのかという反実仮想に基づき、効用の定量的評価が可能になる。

本研究では、労働者が通勤からどれほど不効用を受けているのかを定量的に評価するために、構造推定を労働者の通勤行動に適用している。労働者の通勤行動は、「国勢調査」(総務省統計局)における市区町村間の通勤フローから把握し、個票から独自に集計することで労働者の属性やライフステージ毎の違いを考慮しながら通勤不効用の大きさを明らかにしている。なお不効用を計測する際に、追加的に生じる不効用はどれほどの金額によって補償される必要があるのかという基準を設定している。

男女間の通勤不効用を比較した分析結果より、若年期や未婚時には通勤不効用に大きな差は見られないが、結婚後、女性のみが通勤から追加的な不効用を受けることが本研究において明らかになっている。重要なこととして、構造推定を利用することで、男女間の通勤不効用の量的な違いまで明らかにした点に本研究の貢献がある。

仮に結婚後も未婚時と同一距離を通勤しなければならないという反実仮想のもとで、小中学生を持つ男性労働者と女性労働者の間の通勤不効用の違いを示したのが以下の図である。図(a)で示すように、男性の場合は未婚時と同一の通勤距離を課したとしても、平均的には通勤不効用に大きな変化は生じていない。一方で、図(b)で示すように、女性の場合は未婚時と同一の通勤距離を課すと、平均的に大きな不効用が生じることが分かる。1つの試算として、未婚時と同様に往復80kmの通勤を課すという状況では、小中学生を持つ女性の通勤不効用は、未婚時の名目賃金の少なくとも1.5 倍、大きくて4.8 倍の金額によって補償されなければならないという結果になる。現実の労働市場で得られる名目賃金からは大きく乖離しており、現状では多くの女性が結婚後や出産後に通勤不効用を減らす手段として、通勤距離を短くするような転職、もしくは労働市場からの退出という行動を取らざるを得ないことが示唆される。また通勤不効用の急激な増大を事前に予期しているならば、そもそも結婚や出産という意思決定を行わない可能性も示唆される。

以上の反実仮想の結果は、今後人口減少が懸念される中、既婚女性の就業促進政策を積極的に進めていく必要性を示している。女性が結婚後に受ける通勤不効用は現在の労働市場に任せたままでは解消されないほど大きな水準であり、このような既婚女性に特異な通勤不効用の要因は、直接的な通勤負担の影響だけでなく、労働市場における構造的な問題に起因すると考えられる。したがって、鶴(2016)で議論されているような日本の労働市場の構造的な問題に積極的に取り組んでいくことが重要である。

本研究は今後の政策評価に向けて重要な含意を持っている。一般的に政策評価を行う場合、データの利用可能性から直接観測可能な指標に限定されてしまいがちである。しかしながら、本来は政策によって人々の効用もしくは経済厚生がどれほど増大したのかを基準に政策が評価されなければならない。構造推定を用いれば直接観測できない人々の効用を評価できるということを示した点に本研究の重要な含意がある。

図:結婚後も未婚時と同一距離を通勤しなければならない場合の通勤不効用(追加的な通勤不効用を補償するのに必要な名目賃金上昇額として計測)
図:結婚後も未婚時と同一距離を通勤しなければならない場合の通勤不効用(追加的な通勤不効用を補償するのに必要な名目賃金上昇額として計測)
注)反実仮想に基づいた著者による計算結果。結婚後に通勤に関する選好が変化することから、同一距離の通勤であっても通勤不効用が結婚前後で変化する。ここでは未婚時と同一距離を通勤しなければならない状況で生じる追加的な通勤不効用を計測している。未婚時と同一水準の効用を補償するためには、結婚後にどれだけの名目賃金の上昇が必要なのかを未婚時の名目賃金比として評価している。フレシェ分布のシェイプパラメータの仮定により上限と下限の区間を推定している。
参考文献
  • 鶴光太郎 (2016) 『人材覚醒経済』、日本経済新聞出版社