ノンテクニカルサマリー

起業家の生活満足度は高いのか? 日本のデータによる実証分析

執筆者 本庄 裕司 (ファカルティフェロー)/池内 健太 (研究員)/中村 寛樹 (中央大学)
研究プロジェクト ハイテクスタートアップの創造と成長
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

イノベーションプログラム(第四期:2016〜2019年度)
「ハイテクスタートアップの創造と成長」プロジェクト

日本の中小企業に対する中心的な政策課題の1つとして、起業(創業)を中心としたアントレプレナーシップの促進、すなわち、創業支援がある。このことは、2000年代以降、『中小企業白書』において恒常的に起業(創業)が取り扱われていること、また、「開業率10%」といった政策目標が提示されてきたことからも容易に推察できる。創業支援の目標として、将来的な経済の担い手としての起業家(アントレプレナー)の誕生があり、こうした期待は経済状況に閉塞感がみられるたびに高まる傾向がみられている。近年では、2018年、日本の官民によるスタートアップ支援「J-Startup」が試みられるなど、「ユニコーン」と呼ばれる高額な時価総額(10億ドル以上)を期待できるスタートアップ企業に注目が集まっている。

起業家の所有するスタートアップ企業が急成長をとげて、IPO (initial public offering) をはたせば、起業家は多額の富(キャピタルゲイン)の機会を得る。しかし、すべての起業家が必ずしもこうしたプロセスを経て多額の富を手にするわけではない。実際に、成長とは無縁で事業の継続だけをめざす起業家は少なくない。また、非経済的な目標や自らの趣味の延長線で事業をはじめる起業家も存在する。こうした起業家の存在を考えれば、経済的な成功にもとづく指標より、むしろその個人の満足度に依拠した指標が望ましい。

本稿では、起業経験が生活満足度に与える影響を分析する。ここでは、日本の個人を対象に、起業経験、経済的な富の水準 (level of wealth)、個人の属性についての独自のアンケート調査データを用い、起業経験と主観的満足度 (subjective well-being) との関係を媒介する要因を明らかにする。起業経験が主観的満足度に与える効果を分解し、多段階のモデルを同時推定できる一般化構造方程式モデリングを用いた推定結果から起業経験が主観的満足度に与える総合効果はみられなかった。しかし、起業経験の主観的満足度に対する間接効果は、所得や経済的な富によるプラスの効果と負債によるマイナスの効果がみられることがわかった。こうした結果は、日本において金銭的インセンティブが起業家の誕生につながることを示唆している。

図1:一般化構造方程式モデリング (GSEM; generalized structural estimation modelling) を用いた推定結果
図1:一般化構造方程式モデリング (GSEM; generalized structural estimation modelling) を用いた推定結果
注:ENTREは起業の選択、HHINCは世帯収入、CASHは現金、ASSETは資産、DEBTは負債、SATISFは主観的満足度、WEALTH_h, DEBT_hは潜在変数、ε12は誤差項をあらわす。矢印に対応する括弧内の数値は推定された係数の信頼区間95%をあらわす。円に付随する数値は誤差分散をあらわす。両方向の矢印に付随する数値と括弧内の数値はそれぞれ共分散とその標準誤差をあらわす。

この結果からわかるように、起業の選択が直接的に主観的満足度を生み出すだけではない。とりわけ、本稿で明らかにしたように、収入や資産と関係する富の水準(媒介要因)を経て起業満足度が形成されている。いいかえれば、一定水準の経済的な成功をおさめることで起業満足度は高くなる。他方、負債水準(媒介要因)を経て起業満足度が形成されており、負担が大きくなるとその精神的な負担から起業満足度は低下する。負債の負担が起業家の誕生を妨げるならば、破産時の自由財産の拡充など、起業のリスクを低減する政策や制度が起業の促進に有効かもしれない。

自らが起業家を選択しながらも高い満足度を達成しない結果はやや奇妙に思える。しかし、起業家が創業以前に事業の成果を予見できるだけの十分な情報を有していないと考えれば、期待はずれの収入や想像以上の負債が起業満足度の低下につながるとも理解できる。また、すべての起業家が切望して起業(創業)を選択しているとは限らない。日本の現状に鑑みると、多くの市場では、既存の大企業のほうが圧倒的に競争優位を確立しやすく、こうした組織の従業員のほうが安定した収入を得やすい。その一方で、高齢のために起業でしか満足する職を得られない、あるいは、家業発展のためにやむを得ずに新しい事業に取り組む必要があるなど、自ら望まない起業の選択があり、こうした起業が満足度の低い起業家の誕生につながっているかもしれない。

一定水準の所得に至らない起業、また、負債の増加をともなうだけの起業は、本稿で示したように、起業家自身の効用につながらない。それだけでなく、あらたに社会的な負担を生み出すことになる。こうして考えると、一律に起業を促進する創業支援がはたして望ましいかについてあらためて考えてみるべきだろう。単に起業(創業)を増やすだけでは、「回転ドア」のように入れ替わりの企業を生み出すだけで、大きな経済効果を期待できない (Colombelli et al. 2016).経済効果をめざした創業支援政策を考えるならば、起業家としての能力の開発、また、潜在的な起業家が市場の状況を知る機会に注力するなど、独り立ち可能な起業を増やすことが重要といえる。数値目標に惑わされることなく、効果的な創業支援政策への転換が必要だろう。

参考文献
  • Colombelli, A., Krafft, J., & Vivarelli, M. (2016). To be born is not enough: the key role of innovative start-ups. Small Business Economics 47, 277-291.