ノンテクニカルサマリー

戦後台湾における経済統制から輸出拡大への道:1946〜1960年

執筆者 吳 聰敏 (国立台湾大学)
研究プロジェクト 経済産業政策の歴史的考察―国際的な視点から―
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

政策史・政策評価プログラム (第三期:2011〜2015年度)
「経済産業政策の歴史的考察―国際的な視点から―」プロジェクト

アジア四小龍の1つである台湾は、戦後、世界でも有数の経済成長を遂げた。下記の図は、米国・日本・韓国・フィリピン・中国と台湾の成長経路を示したものである。1955年には、フィリピンの1人当たりの所得は台湾よりも14%高かった。しかし、台湾の高度成長が約45年間続いたため、2000年にはフィリピンの1人当たりの所得は台湾の14%となった。台湾の高成長が1960年代前半に始まったのは確かなことであるが、エコノミストや政策当局者は、この高成長がどのように始まり、どのようにして長期にわたって持続できたのか、理解することを望んでいる。

図:1人当たりGDPの成長率の比較
図:1人当たりGDPの成長率の比較

清朝の時代には台湾経済は伝統的な農業に立脚し停滞していた。1895年〜1945年の間、台湾は日本の植民地となり、この間に、台湾総督府は財産権制度の確立、インフラの構築によって経済成長の基礎を築き、台湾における近代的な経済成長が20世紀初頭に始まった。残念ながら、第二次世界大戦後に中国国民党政権になって以後、台湾は計画経済に移行した。市場システムは深刻な打撃を受け、1946年〜1950年の間はハイパーインフレに見舞われた。

暫定政権は1949年に通貨改革を実施し、それまでの通貨に代わる新台湾(NT)ドルを発行した。対ドルレートは1ドル=NT5ドルであり、新通貨は割高であった。その結果、輸出部門は停滞することになった。

1950年に、政府は、輸入代替化政策を通じて繊維産業の発展を目指した。国内の企業を守るため、繊維の輸入は制限された。たとえば、民間企業による綿織物の輸入が1951年1月に禁止された。保護措置により、国内の繊維生産は急速に増加した。しかし、2年も経たないうちに、政府は新しい問題に直面した。国内の繊維市場が飽和状態になったのである。このため、政府は輸入代替化政策から輸出拡張政策への転換を目指した。

台湾の賃金は1960年から1980年の日本の賃金の4分の1と低かった。しかし、通貨が割高だったことと綿の輸入に対する税率が高かったことにより、繊維製品の輸出コストが増加した。その結果、台湾企業は国際市場で競争できなかった。1950年代後半には、新台湾ドルは大幅に切り下げられ、また、政府は、輸出促進のための一連の改革を開始した。改革の例として、輸出品の生産に使われる原料に対する税金の還付や、輸出者に対する低金利での貸し付けがあった。改革は成功し、繊維製品は台湾の主要な輸出品となった。

繊維産業の成功により、政府は他の産業でも改革を進めることになった。1960年代初頭には、台湾の輸出部門は急拡大し、高成長が始まった。