執筆者 | 市田 敏啓 (早稲田大学) |
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研究プロジェクト | 複雑化するグローバリゼーションのもとでの貿易・産業政策の分析 |
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。
貿易投資プログラム (第三期:2011~2015年度)
「複雑化するグローバリゼーションのもとでの貿易・産業政策の分析」プロジェクト
本論文の目的
本論文の目的は、貿易自由化後の補償制度を制定する上で政府が直面する政策的なトレードオフについて、個別の経済主体が多次元スキルを保有しているような経済状況を表す理論モデルを用いて解明することである。
たとえば、TPP交渉などで、なぜ貿易自由化はスムーズに進まないのだろうか? 貿易自由化は経済(社会)全体にとっては利益をもたらすと知られている。しかしながら、自由化は勝ち組(例:製造業)と負け組(例:農業)を作り出す。政府が自由化後の負け組を補償するような制度があれば文句はでないはずである。なぜ自由化後の負け組を補償するような制度はうまく作れないのか? 補償制度を作る際の政策的なトレードオフはどのようなものがあるのか?
標準的な国際貿易のモデル(リカード、ヘクシャーオリーン、特殊要素など)では、補償制度は問題なく作ることができる、と既存文献では説明されている。では、なぜ実際にはできないのだろうか?
既存文献(Dixit-Norman 1980, 1986)のロジックは、労働や資本、土地などの生産要素には通常市場が存在しているので、政府が税金や補助金の形でそれらの市場に介入することで、補償制度をcommodity taxation(Dixit and Norman のいうcommodity taxation という概念は市場が存在するすべての生産財、および、生産要素に対する税金および補助金をすべて含んだ概念である。したがって、物品税、サービス対価に対する税金、資本に対する課税、賃金に対する税金、土地代に対する税金、など、所得税や法人税まで含めたありとあらゆるプラスマイナスの税金・補助金を含む概念のことである)で作ることができるということである。しかしながら、実際の世の中にはDixit-Norman型の補償制度は作られていない。
補償制度が作れない理由
生産要素のすべてが必ずしも市場で取引されるわけではないのではないか? 土地や資本(建物、機械など)はそれらを市場で購入する際にそれら自身を担保として借入金で購入することもよくあるが、人的資本(スキルや才能)を担保に金を借りることは難しい。人的資本の市場はスポット市場かつ複数スキルの一括バンドル購入が普通である。また、人的資本(スキルや才能)は、それを保有する人がどのセクターで働くかによって、サイズが異なっていることが普通である。貿易自由化は一部の人間が働くセクターを変えざるを得ない状況を生み出す(例:農家をやめて、家電量販店の店員になる、など)。セクターの垣根を超えて転職すると、転職前のスキルと転職後のスキルは異なるものを使わなければならない。
補償制度を作るためには税金や補助金の制度を検討する必要がある。もしも、多年度主義の税金や補助金の制度があるならば、転職をしなかったグループ(昔から同じスキルを使用している)と転職をしたグループ(自由化前と後とで異なるスキルを使用している)のどちらに対しても、スキルの大きさを政府が自由化前と自由化後で推測をしたり、相対的なスキルの違いをもとにした多年度にわたる税金制度を構築することは理論上可能である。しかしながら、税金制度においてはほかの財政制度と同様に、単年度主義が普通である。単年度主義の税制のもとでは、貿易自由化でセクター間転職をした労働者のスキルの変化まで考慮した補償制度は作ることが難しい。それは、同じように農業からサービス業に転職した人たちの間にも、農業での才能とサービス業での才能の相対的、絶対的な差は存在しているからである。
本論文の理論モデルが予想する補償制度のトレードオフ
TPPやEPA、 FTAなどの締結で関税などが撤廃、あるいは削減されると、生産財の価格の変化を通じて国内に経済厚生上の勝ち組と負け組が生まれてくる。本研究では、そのような、所得分配に影響を与えるような政策(貿易自由化)を導入する際に、負け組の失われた経済厚生を補償するような補償制度によって当初のショックを補完する際の政策上のトレードオフについての理論的モデルを構築して分析を行った。とくに、個人の持つ能力が多次元にわたって多様である場合の職業選択モデルを用いて、貿易自由化がいきなり導入されてそののちに補償が行われるケースと、補償制度が行われることを事前に予想された上で関税撤廃などの自由化が行われるケースとで、補償政策が直面するトレードオフの種類が次のように異なることを発見した。
- 貿易自由化後にサプライズとして補償制度が導入されるケース(自由化後補償ケース)...パレート改善と過剰補償とのトレードオフ(パレート改善を徹底しようとすると過剰補償金額が増えて、政府の補償制度予算が大幅に赤字になる)。
- 貿易自由化前から補償制度が導入されることを市場参加者が織り込み済みのケース(予測済み補償ケース)...過剰補償金額と生産効率の改善とのトレードオフ(過剰補償金額を少なくすることはできるが、充分なセクター間転職が起こらず、生産効率は下がる。転職を奨励すると過剰補償が増える)。
伝統的モデルが1人の労働者が労働力をL単位保有していると仮定するのに対して、本論文のモデルではセクターごとに異なる能力をベクトルの形で保有していると仮定する。2つのセクターにおける能力(スキル)の大きさがたとえば(θ,τ)であらわされるとする(θとτはそれぞれ、労働者が持つ2つの異なる能力を表す)。左の図の放射状の線は実際の個人の自由化による勝ち負けの境界をあらわす線であり、右の図の垂直線は政府が単年度税制で把握できる個人所得の区別になる。実際の勝ち負けと政府の把握できる区分わけとの間に齟齬があるために過剰補償が起こってしまう。
政策的含意
関税撤廃などの自由化を補償制度をアナウンスしないで突然行う場合には、事後的な補償制度においてパレート改善を目指すならば、過剰補償が避けられなくなる。したがって、事前に補償制度を導入する可能性を一切公表せずに関税撤廃などを行うと、結果として、政府は補償制度を導入しにくくする可能性がある。というのは、過剰補償金額が大きくなると、所得再分配上の無駄が大きくなり、政府としては、補償制度自体を導入しにくくなるからである。逆に、予め、関税撤廃後に補償制度を導入する旨を国民に伝えてから自由化政策を行うと、過剰補償金額と資源の効率的配分との間でのトレードオフとなる。こちらのトレードオフのほうが補償制度自体を導入することは行いやすい。なぜならば、政府のほうで過剰補償額をコントロールすることが可能だからである。しかしながら、過剰補償額を減らそうとすると、資源配分上は非効率的な分配を促進してしまうので、過剰補償をゼロにすることが必ずしも最適政策とは限らない。あくまでも、通常の経済政策と同じように、過剰補償金額と、資源の効率的配分から得られるメリットとの間でのトレードオフを計算して、最適な過剰補償レベルを決定する必要がある。
本論文は理論モデルの分析であるために、実際の補償制度をどの規模にすべきかなどの提言はできないが、少なくとも、補償制度を一切アナウンスせずに関税撤廃などのショックを導入するよりは、事前に補償制度を導入することを国民に知らせてから関税撤廃の交渉を進めるほうが、政策担当者の政策的自由度をより多く残すので、望ましいことを示唆している。関税撤廃や削減などの貿易自由化政策の導入には、事前に所得分配上の負け組(TPPの場合には農業従事者など)への補償制度をある程度はっきりと提示してから各国間交渉を行うほうが、政策担当者の政策決定自由度は高くなる。
また、所得税制度を単年度主義から多年度主義に変えることによっても、補償制度のトレードオフは改善することが本理論モデルの分析で分かっている。しかしながら、多年度主義の所得税制は実際の運用が難しいことも公共経済学の分野では知られている(Vickrey 1994)。
図中の横軸に自由化後に勝ち組産業になるセクターXで使用するスキルθを、縦軸に負け組産業セクターYで使用するスキルτをとってある。青い線があらわしているのは自由化前の財の相対価格をもとにしたセクター分業線で、線の下側の人々は財Xを生産し、線の上側の人たちは財Yを生産している。赤い線は自由化後のセクター分業線をあらわす。よって、赤い線の上側の人たちは自由化前も自由化後も財Yを生産し続ける人たちで、青い線と赤い線に挟まれた領域の人たちは財Yの生産から財Xの生産に転職を余儀なくされた人たちである。図中の2点qとrは、qが転職者のなかの負け組でrが転職者の中の勝ち組であるが、単年度主義の税制のもとでは、自由化後の所得が同じである(財Xの生産者としてはスキルレベルが同等である)ために区別がつかない人たちをあらわしている。実際には転職者の中に勝ち組も負け組も混ざっているのだが、単年度主義の税制のもとでは、このように区別がつかなくなり、それらの人たちにも自由化後の所得補償をしようとすると、本来は勝ち組だから補償金が必要ないグループにまで補助金を出さなければならなくなり、過剰補償が起こってしまう原因となる。