執筆者 | 川口 大司 (ファカルティフェロー)/近藤 絢子 (横浜国立大学) |
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研究プロジェクト | 変化する日本の労働市場―展望と政策対応― |
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。
人的資本プログラム (第三期:2011~2015年度)
「変化する日本の労働市場―展望と政策対応―」プロジェクト
本研究の意義
本研究はアメリカのデータを用いて、不況期に大学を卒業することがその後の消費行動や資産保有にどのような影響を与えたかを調べたものである。すでに日米はじめ多くの先進国を対象にした研究が、不況期に大学を卒業するとその後の労働所得が10年前後の長期にわたって減少することを示している。この研究はその発見からさらに一歩分析を進め、労働所得の減少が消費の減少や資産保有の減少につながっているかを調べた世界で初めての研究である。
労働所得の減少が消費や資産保有の減少につながっているかどうかは、マクロ経済の安定的運営のメリットを評価するうえで重要である。ルーカスは1987年の論文で各個人に降りかかるショックが保険市場を通じて平均化されるという想定のもとでマクロ経済運営を安定化させることのメリットを計算したが、そのメリットがきわめて限定的であることを明らかにした。しかしながら、この研究の景気循環のコストは大幅に過小推定されているとクレブスが2007年の論文で反論している。彼が重視したのは労働市場での失業リスクが保険市場で十分に吸収されないため、失業時の所得減少は消費減少に相当程度直結することである。特定個人の消費の減少はその個人の厚生を大きく引き下げ、ひいては景気循環のコストを大きくする。クレブスの議論に従えば、学卒時の景気動向で労働所得水準が変動することは世代ごとの厚生水準を大きく変化させることにつながりそうである。なぜならば、卒業時に不況に見舞われて低所得の職に就いたとしても、失業保険のような保険メカニズムを通じて消費水準が確保されるということは考えづらいからである。
分析結果
学卒時の失業率がその後の労働所得、家族形成、消費ならびに資産保有に与える影響を調べるために、日本の労働力調査に当たるCurrent Population Surveyと日本の家計調査に当たるConsumer Expenditure Surveyの1996年から2013年にかけてのマイクロデータを用いた。分析の対象は非ヒスパニック白人男性の大卒者(Community College卒などを含む)で卒業後18年以下のものである。各個人あるいは世帯主の年齢と学歴から学卒年を計算し、さらに現在の居住地から学卒時点に住んでいた州を推測し、ある州の学卒年における失業率をその個人が学卒時点で直面した労働市場の状況として取り扱った。
Current Population Surveyを用いた推定の結果、学卒時の失業率が高いことはその後の労働所得を学卒後約10年間にわたって引き下げることが明らかになった。この結果は先行研究で得られている結果と整合的であった。一方で、学卒時の失業率が高いと親との同居確率が学卒後6年間にわたって有意に高まることも明らかになった。学卒時の労働市場が悪く労働所得が低いことの影響を、親と同居し住居を無料で確保するなどで和らげようと行動していることを垣間見ることができる。
標準化された 支出の 自然対数値 | 標準化された 世帯サイズの 自然対数値 | 食費支出比率 | 持ち家 | |
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学卒時州失業率×卒後1-3年 | -0.016 (0.016) | 0.015 (0.008)* | 0.003 (0.003) | -0.009 (0.014) |
学卒時州失業率×卒後4-6年 | 0.011 (0.013) | 0.008 (0.007) | -0.002 (0.002) | 0.005 (0.009) |
学卒時州失業率×卒後7-9年 | 0.011 (0.014) | 0.002 (0.006) | -0.001 (0.002) | -0.004 (0.008) |
学卒時州失業率×卒後10-12年 | 0.014 (0.012) | -0.007 (0.006) | -0.001 (0.001) | 0.007 (0.010) |
学卒時州失業率×卒後13-15年 | 0.005 (0.009) | -0.005 (0.005) | 0.001 (0.001) | -0.012 (0.007) |
学卒時州失業率×卒後16-18年 | 0.002 (0.008) | 0.002 (0.005) | 0.001 (0.001) | -0.012 (0.007)* |
R2 | 0.45 | 0.10 | 0.02 | 0.14 |
N | 32,431 | 32,432 | 32,432 | 32,432 |
注:カッコ内は州レベルの相関を許したクラスタリング頑健標準誤差。すべての特定化にはコーホート固定効果、年-四半期×州固定効果を含む。標準化された支出とは四半期支出を標準化された世帯サイズで割ったもの。標準化された世帯サイズとは1+世帯主以外の大人*0.5+子供*0.3で定義されるもの。食費支出比率は過去4半期の食費支出を総支出で割ったもの。*は10%水準で統計的に有意であることを示す。 |
上記の表には世帯サイズを標準化した支出の水準を学卒時の失業率に回帰した結果を示してある。学卒時の失業率の影響は時間の経過とともに減衰するような特定化となっている。推定の結果はほとんど統計的有意性がなく、学卒時の労働市場の状況が消費の代理変数である支出に対してほとんど影響を与えていないことを示している。また、エンゲル係数と呼ばれ世帯の生活水準を表現すると考えられる食費支出が総支出に占める割合も学卒時の失業率の影響を受けていない。また、持ち家の確率も学卒時の労働市場の状況から影響を受けないようである。総じてこの結果は学卒時の労働市場の状況が消費水準に影響を与えていないことを示している。
同様の分析をConsumer Expenditure Surveyから得られる銀行口座での流動資産の保有状況や投資信託や株の保有状況に関して行っても同様に、統計的に有意な結果とはならなかった。これは学卒時の労働市場の状況が世帯の資産保有状況に有意な影響を与えていないことを示している。
結論と今後の課題
本研究の結果を総合的に考えると、学卒時の労働市場の状況が悪いことは卒後約10年にわたって労働所得を有意に引き下げるものの、そのショックを親との同居によってある程度吸収していることがわかる。そのこともあり、少なくとも消費への悪影響は有意に観察されないことも明らかになった。この発見は学卒時の労働市場の状況が長期的な悪影響を与えることが直ちに景気循環の厚生上のコストを引き上げることを意味しないことを示唆している。
同様の分析を日本に関して行うことが課題であるが、代表的政府消費統計に世帯主の学歴情報が含まれないため分析は不可能である。学歴差は労働所得差の大きな発生原因であることが日本の既存研究で明らかになっており、消費差への影響も大きいと考えられる。経済格差を議論する際に消費や支出差は非常に重要な指標であり、経済格差に関心が集まる中で全国消費実態調査や家計調査といった政府統計において世帯主の学歴情報を収集することは喫緊の課題である。