ノンテクニカルサマリー

就業のオプション・ヴァリュー及び健康状態が引退の意思決定に及ぼす影響:「くらしと健康の調査」(JSTAR)による検証

執筆者 清水谷 諭 (コンサルティングフェロー)
藤井 麻由 (一橋大学)
小塩 隆士 (一橋大学)
研究プロジェクト 社会保障問題の包括的解決をめざして:高齢化の新しい経済学
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

社会保障・税財政プロジェクト (第三期:2011~2015年度)
「社会保障問題の包括的解決をめざして:高齢化の新しい経済学」プロジェクト

就業のオプション・ヴァリュー・モデル

「人はいつなぜ引退を決めるのか」は、日本のみならず急速に高齢化が進む国々で、徹底的にしかも早急に解明しなければならない最重要トピックの1つである。しかし同時に、引退の意思決定には、経済的要因だけでなく、健康や家族関係など多様な要因が複雑に絡み合い、一筋縄ではいかない難しい面がある。

この論文は、中でも経済的要因に着目する。これまでも経済的要因が引退に及ぼす影響を実証した研究は日本にもあるが、多くは調査時点に受け取っていた所得(あるいは保有していた資産)が、その時点の就業状態に与える影響を分析したものが多い。しかしデータの制約があるとはいえ、これでは十分でないと言わざるを得ない。

その最大の理由は、個人は当期の所得だけでなく、将来にわたって得られる所得(あるいはその効用)まで視野に入れつつ、合理的に引退の判断を行っているという動学的な側面が無視されているからである。個人は引退するまでに得られる労働所得や、引退してから死亡するまでの年金所得を考えながら、最も適切な時期に引退すると考えるほうが自然であろう。これをモデル化したのがStock and Wise (1990, Econometrica)の「オプション・ヴァリュー・モデル」である。

このモデルを簡単に説明するとこうなる。現在働いている個人は、すぐに引退して(支給開始年齢に達していれば)年金を受給し始めるという選択もできるし、もう1年働いて労働所得を得てから、同じように年金を受給し始めるという選択もできる。これは1年に限らず、あとX年働いて労働所得を得てから、年金を受給し始めるという選択もある。

ではいつやめるのが最も合理的か。この個人は、労働所得から得られる効用の現在価値の合計と年金所得から得られる効用の現在価値の合計(さらにこの2つを労働の不効用でウェイト付した加重平均)を最大化していると仮定する。この場合、それぞれの年齢で引退した場合の効用を計算し、今すぐ引退した場合に比べて最も大きくなる時に引退するのが合理的ということになる。たとえば、現在60歳の個人の場合、今引退するよりも61歳で引退する場合の効用が高い場合には就業を継続する。もし65歳で引退する場合に、効用が最も高くなる場合には、あと5年働いてからやめるのが最も合理的ということになる。

実証分析の結果

90年以後、このオプション・ヴァリュー・モデルを使った実証研究が積み重ねられてきた。特にモデルの考案者の1人であるDavid Wise教授が主導するNBER(全米経済研究所)の国際社会保障プロジェクトでは、先進12カ国でこのモデルが有効性を持つことを確認してきた。しかしこれまではマクロデータを用いた分析だったり、国際的に比較できない、あるいはオプション・ヴァリューの計算に必要な変数に欠けているデータセットを用いた分析だった。

2011年から始まったこのプロジェクトのPhase 7では、HRS (Health and Retirement Study。米国)、ELSA (English Longitudinal Survey on Ageing。英国)、SHARE (Survey on Health, Ageing and Retirement in Europe。大陸欧州)、JSTAR(Japanese Study on Aging and Retirement。日本)という世界標準の中高年パネルを使って、国際共同比較研究が進められている。「くらしと健康の調査」が、これまで多くの研究を生み出してきたNBERのプロジェクトの中で、他の調査とともに明確に位置付けられていることを特記したい。

この論文はその成果の一部である。まず2007年(Wave1)時点で働いていた「くらしと健康の調査」のサンプルのオプション・ヴァリューをそれぞれの個人について計算した。次に、2009年(Wave2)時点で引退した場合を1、働いていた場合を0とする2値変数を被説明変数とし、オプション・ヴァリューや他の個人の属性を説明変数として、プロビット推定を行った。

推定結果はTable2に示されている。まず、さまざまな説明変数を変化させても、オプション・ヴァリューの係数はほぼ常にマイナスで有意である。つまり、オプション・ヴァリューが大きいほど、引退する確率が低いという期待通りの結果が得られている。もう1つ注目すべきなのは、下段の結果にみられるように、オプション・ヴァリューと健康状態の交差項を説明変数に加えると、推定された係数はマイナスでしかもいくつかのケースでは、統計的に有意になる。これは健康状態がよいほど、オプション・ヴァリューの係数(の絶対値)が大きい、つまり引退の意思決定がオプション・ヴァリューに反応しやすいという点である。健康状態がよくないと、それが理由で引退せざるを得ない場合もあることから、これも予想通りの結果である。

実証分析の結果

このように「くらしと健康の調査」を用いてオプション・ヴァリュー・モデルを実証したところ、予想通りの結果が得られ、健康状態を考慮しても整合的な結果が得られた。しかし同時に、この実証分析結果の限界も指摘しておかねばならない。それは推定されたオプション・ヴァリューの係数が小さいことである。ここで計算されているオプション・ヴァリューの単位は100万円なので、それが相当大きく変化しないと、引退確率は大きく変わらない。そのため、この分析結果を用いて、たとえば障害年金の受給者数がヨーロッパ並みに変化した場合の政策シミュレーションを行ったところ、引退の確率がわずかにしか高まらないという結果になった。

こうした推計結果が、日本特有の問題なのか、あるいはその他の要因なのかは今後さらに精査を加えていく必要がある。また個人でなく配偶者も入れた世帯単位でのモデル化といった理論的課題あるいはオプション・ヴァリューを計算する上で用いる賃金プロファイルのあり方といった技術的課題も、改善していく余地がある。