ノンテクニカルサマリー

ケインズ経済学のミクロ的基礎づけ

執筆者 吉川 洋 (ファカルティフェロー)
研究プロジェクト 日本経済の課題と経済政策-需要・生産性・持続的成長-
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

新しい産業政策プログラム (第三期:2011~2015年度)
「日本経済の課題と経済政策-需要・生産性・持続的成長-」プロジェクト

「ケインズ経済学のミクロ的基礎づけ」といっても、それが現実の経済政策とどのように関係しているのかよく分からない、という人が多いだろう。経済政策と経済理論の関係をあまり深刻に考えなくてもよいと思われるかもしれないが、両者のリンクを断ち切ってしまえば、どのような政策も許されることになるから、政策論議は「海図なき航海」に陥るしかない。

1960年代にはマクロ経済学といえば、ケインズ経済学のことを指し、財政・金融政策はケインズ理論のフレームワークに基づいて議論されていた。しかしアカデミックな世界では、1970年代以降マクロ経済学は、ルーカス、サージェント等による合理的期待理論、プレスコット等の実物的景気循環理論(リアル・ビジネス・サイクルの頭文字をとってRBCと略称される)を通して、新古典派的なマクロ経済学へとその姿を一変した。

新古典派の経済学は、財政・金融政策の効果についてケインズ経済学とはまったく異なる考え方をする。すなわち新古典派理論によると財政政策は実質GDPに影響を与えない、というのが新古典派理論の帰結なのである。また「実物的」景気循環理論という名前からも分かるとおり、金融政策もまた実質GDPの水準に影響を与えないと考える。資本ストックがどれだけ存在するか、技術の水準がどれだけであるか、人々が余暇と労働をどれだけ選考するか、こうしたことによって実質GDPは決まると考えるのが新古典派理論なのである。景気安定化のために財政・金融政策がやれることはほとんどない。これが新古典派マクロ経済学の結論である。

しかしリーマン・ショック後の世界経済の動向を見るとどうだろう。学界の主流とはまったく逆に財政・金融政策が世界中で積極的に活用された。「ケインズ」の名こそ声高に叫ばれなくとも(実際にはケインズの「復活」もそれなりに言われたが)、積極的な財政・金融政策の基礎にあるのはケインズ経済学にほかならない。そこで改めて問題となるのが、ケインズ経済学の「ミクロ的基礎づけ」である。そもそも1970年代以降、学界で新古典派理論が優勢となったのは、ケインズ経済学がしっかりとしたミクロ的基礎づけをもたないのに対して、一般均衡理論に代表される新古典派経済学は明確なミクロ的基礎づけをもっている、と多くの経済学者が考えたからにほかならない。それがルーカス、プレスコット、サージェント等によってなされた「反ケインズ革命」の触れ込みであった。

こうした新古典派の攻勢の中で、ケインズ経済学のミクロ的基礎づけに関する研究がなされなかったわけではない。実際、数多くの研究がなされたのだが、それらはいずれも価格・賃金の硬直性を企業や家計などミクロの経済主体の「合理的」行動と整合的に説明することを企図するものだった。価格や賃金が伸縮的に動けば新古典派的な均衡が実現するが、価格が硬直的であるためにケインズ的な世界が現出する。これがこうした研究の大前提であったからである。

本論文では、価格の硬直性をミクロの行動から合理的に説明しようとするスタンダードなミクロ的基礎づけとはまったく異なる、統計物理学的な方法に基づく新しいアプローチについて説明する。統計物理学は多数のミクロの「粒子」から成るマクロの系を分析するための方法を提供する。日本経済には106のオーダーの企業、107のオーダーの家計が存在する。このように多数のミクロの主体から成るマクロ経済を分析するときには、個々のミクロの経済主体の行動を詳しく調べても意味はない、というのが統計物理学の出発点である。経済学におけるスタンダードなミクロ的基礎づけと文字どおり正反対の考え方である。本稿では、労働サーチ理論の一般化ともいえる「確率マクロ均衡」の概念を説明し、それがケインズ経済学のコアである有効需要の原理に正しいミクロ的基礎づけを与えることを示す。マクロ経済学における新しいアプローチに1人でも多くの人が関心をもっていただければ幸いである。