ノンテクニカルサマリー

日本人の引退プロセス:「くらしと健康の調査」(JSTAR)による新たな知見

執筆者 市村 英彦 (ファカルティフェロー)/清水谷 諭 (コンサルティングフェロー)
研究プロジェクト 社会保障問題の包括的解決をめざして:高齢化の新しい経済学
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

基盤政策研究領域I (第二期:2006~2010年度)
「社会保障問題の包括的解決をめざして:高齢化の新しい経済学」プロジェクト

1.遅れている引退プロセスの解明

日本の引退年齢は世界的にみて高い水準にあるとされる。しかし引退は就業継続か否かという二分法で割り切れず、長い時間を要するプロセスとして理解されるべきである。また引退に至る意思決定は、現在の保有資産や就業継続の場合の労働所得といった経済的な要因、認知力や肉体的、精神的な面での健康の状態、配偶者の有無や家族の介護の必要性といった家族の状況、といった極めて多様な要素に依存する。

残念ながら、引退プロセスの多角的な解明は、データ制約などから日本では十分進んでこなかった。その結果、政策論議が実証的根拠を伴わず、現実から遊離している。第1に、暗黙裡に「典型的な高齢者」モデルを想定し、高齢者の多様性が無視されている。定年年齢が延長されたとしても、労働意欲をもつすべての高齢者が定年まで働けるわけでもない。第2に、高齢者が働き続けるためのインセンティブ(動機づけ)が十分考慮されていない。確かに社会保障資産が減少すると全体としては労働供給が増加することは先進各国で確認されているが、すべての高齢者が働き続けたいわけでもない。第3に、世代による経済、健康、家族関係などの差が考慮されていない。現在と将来の高齢者は全く同列には論じられない。

2.「くらしと健康の調査」(JSTAR)によるパネル分析

この論文では、2007年(第1回)と2009年(第2回)に実施された「くらしと健康の調査」(JSTAR)をパネル化することによって、引退プロセスの解明を試みた。JSTARは学際的・国際的・縦断的にデザインされた世界標準の中高年パネルデータ調査であり、日本の高齢化の経験を国際的視野で定量的に分析する機会を提供する公共財である。ここでは2時点とも回答した対象者について、2007年時点の状況が、2009年の労働供給(引退)の意思決定に及ぼす影響を検証した。その際、引退や労働時間の意思決定に及ぼす要因を、健康要因、家族要因、社会経済要因の3つに分けてインデックスを作成し、各要因がもたらす影響を年齢別にまとめて把握する手法を導入した。

3.実証結果

実証結果は大きく3つに集約される。第1に、男女とも60歳以上の場合には、2007年時点ですでに引退している場合には、2009年時点で労働市場に再び戻ってこないが、50歳代の場合にはそれに限らない。一方2007年時点で引退していない場合には、2009年に引退確率は20%台前半まで低下するが、年齢や2007年時点の労働時間によって引退確率には幅がある(Figure 4および5)。

第2に、2007年時点で引退していない場合に、2009年に引退する確率は20-28%と推定されるが、引退の決定要因は男性では専ら家族要因に依存するのに対し、女性では3つの要因とも影響している。経済、健康、家族の面で恵まれている50歳台あるいは70歳以上は引退しやすい。逆に60歳台は引退しにくいものの、65歳以上の男性で週労働時間30時間以下、60歳以上の女性で30時間以下、60歳代前半ないし70歳以上の女性で30-40時間の場合には、すぐに引退する傾向がみられる。つまり性別にかかわらずインデックスの高い場合には60歳代で引退する確率は低いが、すでに労働時間が短い場合には、インデックスが低い場合よりもむしろすぐに引退する可能性がある。

第3に、3つのインデックスが低い労働者は、高い場合よりも労働時間を削減しやすいが、70歳で週40時間以上働いている女性は例外である。

4.まとめとインプリケーション

このように、経済、健康、家族といった面で恵まれている場合には、性別にかかわらず現在の労働時間で働き続けようとするが、50歳台や70歳台ですでに週30時間以下に減らしていると、インデックスの高い方が引退しやすい。60歳代で30時間以下の場合はインデックスの高い方が引退しにくい(女性の70歳代は例外)。

このように引退プロセスには、年齢はもちろん、経済、健康、家族といった多面的な要素が複雑に影響している。従ってそうした要素について丹念にデータで検証し、事実を踏まえることこそ、柔軟な働き方を可能とし、また労働需給のマッチングをより効率的にさせる柔軟な高齢者の労働市場の整備の企画立案に不可欠である。現在、社会保障改革論議の中で、公的年金の支給年齢引上げとそれに伴う一律の定年延長が提案されているが、以上の実証結果を踏まえるとこれには問題が多い。今こそ高齢者の労働政策においても実証に基づいた政策の企画立案が求められているのである。