新春特別コラム:2018年の日本経済を読む

「人づくり革命」と我々の課題

河村 徳士 リサーチアソシエイト

新春コラムは執筆者個人の責任で発表するものであり、経済産業研究所としての見解を示すものでは有りません。

「人づくり革命」の内容

2017年秋の総選挙のすえ新発足した第四次安倍内閣は、選挙戦の折から教育無償化をめぐる議論を政治課題の俎上にのせながら有権者にアピールしたように、デフレ脱却、生産性向上、財政健全化などのこれまでの課題に加えて教育をも対象とした点に1つの新しさがあった。これらの内容は、「人づくり革命」と「生産性革命」を重要な二本柱とした新しい政策パッケージとして公表されたばかりである(注1)。

「人づくり革命」は、①幼児教育の無償化、②待機児童の解消、③高等教育の無償化、④私立高等学校の授業料の実質無償化、⑤介護人材の処遇改善などを掲げ、あわせて⑥財源確保の策を練ったものとなっている。これらの「人づくり革命」の課題は、政府自身が、成長軌道を確実なものとするために必要と考える少子高齢化対策に立ち向かうものと明記したように、いずれも広くは少子化対策を課題としている(注2)。また同時に、②や⑤は働き方革命に応じた女性就業率の上昇をも目的とし、③と④が所得別のサポートを想定しているように親世代の格差に基づいた子供世代の教育機会の不平等化を是正することをあわせて目標としている。さらには子育てと教育とを社会的な課題とみなしたという点では①と②も、③と④と同様な関心として議論すべき内容とも考えられる。ここでは「人づくり革命」をこのような視点、すなわち子育てと教育とが社会的な課題とみなされ始めたという視点でとらえ考察を加えたい。

企業の役割の限界と「人づくり革命」

日本の社会保障の仕組みにおいては、そもそも子供関連の給付は少なかったと言われている(注3)。これを補ってきたのが高度成長期以降に形成された、実質的な雇用保障を伴うような労働契約を提供してきた企業のあり方であり、そのもとで成り立った女性が家庭にとどまる核家族であった。専業主婦としての女性労働は、子育てと教育投資の捻出とに振り向けられながら、現在の介護に近いような手当にも及んだであろう。脆弱な社会保障は、男性の労働力が企業という家庭の外に提供され、なおかつそこでは長期雇用と所得の上昇が保証されたことを条件として、家庭内の女性の主婦労働を可能にすることによって覆われていた(注4)。しかしながら、すでに指摘されているように、経済成長を達成しながら企業利益を確保し、生産性上昇の果実を労働者にも分配する仕組みは、おおよそ1970年代以降、消費内容の多様化やサービス産業化の進展と共に緩やかながらも生産性の鈍化に直面し始め(注5)、1990年代以降、企業利益率の低下を要因とした需要不足に基づいた低い成長の時代に突入し崩れかかっていった(注6)。雇用の場を提供する企業の役割は必ずしも十分には果たされなくなり、正規、非正規といった雇用条件の相違を生みだし所得格差の進展が放置されていったのである(注7)。

このような所得格差あるいは所得の向上がなかなか実現しない雇用条件の常態化は、理想子供数の制限や子供世代に対する平等な教育機会の喪失が散見され始めたことに少なくとも影響を及ぼしているだろう。たとえば、2015年の調査によると、出産後の妻が何らかの形態で就業している割合は、1977年の35%から2015年には53%に上昇しているし、15歳未満の子供を抱えた無職の妻のうち86%は適切な時点での就業を望んでおり、その理由は経済的なものであった(注8)。時間と所得とにゆとりをもった主婦労働のあり方は限定的なものへと変化したであろう。子育てや介護に費やす時間が削減され、教育投資の費用は家計を圧迫し始めたことが予想でき、このような条件に基づいて、人々は上記のような政策課題を実感のわくリアルなものとして受け止めたのかもしれない。

一方で、「生産性革命」は、既存の産業のみならず新しい産業も対象としてさまざまな方法によって発展を支援することを表明しており、従来通り経済成長を目標とした政策課題の一環と考えられる。もちろん「生産性革命」の内容を吟味することは重要であるし、すでに筆者も指摘してきたように、経済成長が永続的でない可能性も考慮しようという柔軟な発想を共有しながら産業発展を支援する政策が必要だと考えられるが(注9)、ここでは「人づくり革命」に力点をおいて新しい政策パッケージから我々の課題を考えてみたい。

今後の課題

子育てや介護を社会的な問題として設定することや、そもそも社会的に共通する必要なとりくみと想定されていた教育を改めて費用負担の面から再考することは(注10)、上で述べたような企業を中心とした仕組みによって解決されていた課題が露見し(注11)、行政支援を求めたものと把握することができる。重要なことは、我々は行政支援を単に求める主体としてとどまってよいのかということである。特に教育を対象として考えるべきことは、第1に、教育に必要となる費用負担を軽減し機会の平等を提供することは重要だとしても、教育の質をいかに改善および維持するのかという視点が希薄な点である。大学までの教育ももちろん重要となるが、とりわけ大学では研究を主眼としながら教育活動が行われていることを重視するとき、研究と教育との質を改善する視点は常に保持しなければならないだろう。もし、無償化に伴って研究や教育のコストが削減される事態により一層及ぶのであれば、これはできる限り回避するか、内実を失わないように注意しなければならない(注12)。第二に、このように教育費用の行政負担が増すことに伴って教育の質にかかわる課題が浮上する可能性のあることを想起するとき、改めて社会的共通資本としての教育の意義を再考する必要があるだろうということである(注13)。単に生存する権利だけではなく健康で文化的な最低限の生活を営むことを基本的な権利とするような価値観が支配的になった現在の我々の立ち位置においては、社会全体にとって共通の資産の1つと呼べる教育制度を社会的に管理・運営することがより重要な課題として浮上してきたのではないだろうか。職業的専門家による受託(fiduciary)の原則に基づいた管理・運営、政府の適切な監理があいまって社会的共通資本が役割を発揮できるよう、これらの立場にある人々の自覚が問われるであろう。同時に、専門家集団や行政機構に委ねるとしても、我々も意義のある判断を主体的に下しながら仕組み作りに関与する、あるいは見極めていくことが大切になるだろう。

脚注
  1. ^ http://www5.cao.go.jp/keizai1/package/20171208_package.pdf
  2. ^ もちろん、人口の増加が需要を増やす可能性は否定できないが、供給サイドに注目すれば、生産性の上昇は必要労働力を省きながら進み同時に新たな産業をも生み出していったことを忘れてはならない。経済成長の源が人口の増加ではなく技術革新であることを強調した見解として、吉川洋『人口と日本経済』中公新書、2016年。
  3. ^ たとえば、広井良典『定常型社会―新しい「豊かさ」の構想―』岩波新書、2001年、第二章など。
  4. ^ 武田晴人『脱・成長神話』朝日新書、2014年、第二章、広井、前掲書など。
  5. ^ 武田晴人編『高度成長期の日本経済』有斐閣、2011年、序章など。
  6. ^ 橋本寿朗『デフレの進行をどう読むか』岩波書店、2002年。
  7. ^ たとえば、伊東光晴『日本経済を問う』岩波新書、2006年、第4章など。自己責任論が都合よく利用されながら所得格差が受け入れられていったが―言い換えると日本の労働者は耐性が強かったともいえる―、そうしたしわ寄せはとりわけ家族という社会関係に対して所得面のみならず心理面からさまざまな負担になったと考えられる。家族だけではなく愛や友情に委ねられた人と人との関係を介した救済が、いたるところで展開されていたのかもしれない。言わば、労働市場から長い間にわたって評価が得られない場合は、このような人と人との絆が救済機能としての役割を果たしたとみることができる。家族、愛、友情といった関係性に基づいた救済機能が期待できない場合、政府の対応が生存をめぐる問題を緩和するはずであるが、これが十分なものであったのか否か我々は積極的に考えていく必要があるだろう。家族、愛、友情が社会的な機能としてだけ評価すべきものではなく、幸せな人生を送ることそのものでもあることを想起するとき、なおさらそうであろう。神野直彦『「希望の島」への改革』NHKブックス、2001年。
  8. ^ 国立社会保障・人口問題研究所「第15回出生動向基本調査(夫婦調査)」、2015年。
  9. ^ 河村徳士「我々は経済成長によっていかなる社会像を描こうとしているのか」『独立行政法人経済産業研究所 新春特別コラム2016年の日本経済を読むweb版』、2015年12月25日。
  10. ^ 正確には、「人づくり革命」には学び直しと新しいチャレンジも構想されているので、教育制度の再検討をも射程に収めている。
  11. ^ もちろん、介護に関しては高齢化という不可避的な事態の進展も影響しているだろう。
  12. ^ たとえば、近年の大学をめぐる課題については、佐和隆光『経済学のすすめ』岩波新書、2016年など。
  13. ^ 経済史畑で育った筆者にとってはやや専門外に及ぶので恐縮ではあるが、ここでのイメージは、宇沢弘文『社会的共通資本』岩波新書、2000年に基づいている。

2018年1月4日掲載

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