その昔、知人から、ある国立大学付属高校では、教育効果を検証するために双子を入学させていることを伺った。同じ親の同じ受精卵から生まれた人であれば、遺伝子効果は等しいと仮定でき、いずれかに何らかの教育を施して比較すれば、遺伝子効果を除去したうえで教育効果を測定できる。比較の視点は実証分析で有効なことが少なくない。とりわけ、近年、政策効果の検証方法として確立してきたマッチング法および差の差 (differences-in-difference) の分析フレームワークは、比較の視点を生かした分析方法だ。
起業意識の形成とエコシステムの重要性
日本のように既存の産業や企業による成長に停滞がみられる国では、新しく誕生する企業、すなわち、スタートアップ企業の登場を通じた経済活性化に期待が寄せられている。いうまでもなく、スタートアップ企業の誕生には起業家の登場が前提となり、個人が起業に関心を持つことが必要条件だ。しかし、これまでの間、日本では、起業に関心を持たない、いわゆる「起業無関心層」の多さがしばしば指摘されてきた (中小企業庁, 2017, 2019)。仮に多くの人が起業を志すことが望ましいならば、個人の起業意識 (entrepreneurial intention) を高めることは、起業エコシステム(あるいは「スタートアップエコシステム」)の「裾野」を広げる有効な施策となり得る。スタートアップ企業への資金供給の取り組みが進む一方で、こうした企業がその役割を十分にはたすエコシステムの構築こそが持続的な経済活性化に有益といえる(注1)。ただし、日本では、スタートアップ振興が特定の人たちに限定されやすいという指摘もある (Honjo, 2015; Honjo and Nakamura, 2020)。こうした背景から、スタートアップ企業との関係が新たな起業意識の形成にどのように結びつくかという視点からの検証が求められている。
これまでの間、起業意識について多くの研究が行われてきた (Donaldson, 2019; Tetteh et al., 2024; Tsou et al., 2023)。いくつかの実証分析では、個人属性や経験などとの関係に注目し、起業意識の高い個人属性を示している (Miralles et al., 2016)。ただし、こうした実証分析では、一度だけのアンケート調査から得られたデータに依拠することが多く、追跡調査(パネルデータ化)は、時間、費用、さらに個人特定の回避といった制約から容易でない。個人の履歴や性格などの固有効果をつぶさにとらえようとすれば、質問項目は膨大となり、回答負担に伴う回収率の低下や個人情報保護の観点から、調査自体の実施を揺るがしかねない。結果として、回答者の類似した回答傾向が影響する「共通方法バイアス」(common method bias) など、調査設計上の制約によって分析結果に歪みが生じる懸念が常に残る。
比較を通じた調査分析の試み
こうした制約のもとでの1つの打開策として、2022年12月に実施したアンケート調査「起業と転職に関する調査」では、調査対象項目(起業意識)とそれと対照的な項目(転職意識)を同時にたずねている。アンケート調査では、9,345人(調査対象10,000人から起業して現在その事業を続けている655人を除く)のうち、1,007人(11%)が起業を予定している、あるいは、将来起業したいと回答しており、また、1,328人(14%)が転職を検討していると回答している(注2)。さらに、1,913人 (20%) がスタートアップ企業(創業前および創業から5年以内の企業)と取引や共同で業務に取り組んだ経験があると回答しており、991人 (11%) がスタートアップ企業に投資した経験があると回答している。起業は、それまでと異なる職業につく点で転職という行動と類似する。ここで紹介する調査研究では、転職意識との比較を通じて起業意識に固有の要因を識別する。すなわち、起業意識と転職意識の差異を抽出することで、何が起業を後押しするかを明らかにしていく。
推定結果の一例を紹介しておこう。表1に、起業意識と転職意識を従属変数とする線形確率モデルの推定結果を示す(注3)。ここでは、調査対象の各個人に対し、起業意識と転職意識の2つの観測数を積み上げて従属変数とし、独立変数として、意識の種別をあらわすダミー変数(1: 起業意識、0: 転職意識)、スタートアップ企業との取引・共同事業経験をあらわすダミー変数(1:あり、0:なし)および両者の交差項を用いる。また、制御変数として、年齢層、性別、学歴といった変数を加え、これと意識の種別をあらわすダミー変数との交差項も含めている。同様の方法で、スタートアップ企業への投資経験をあらわすダミー変数(1: あり、0: なし)の関係も検証してみる。推定結果を視覚的にあらわすために、図1にスタートアップ企業との取引・共同事業経験と起業意識(転職意識)、また、図2にスタートアップ企業への投資経験と起業意識(転職意識)との関係(予測確率)を示す。
スタートアップ企業との関係と起業意識
推定結果から、いくつかの事実が明らかになった。意識の種別ダミー(起業意識)がマイナスで有意なことから、平均的に起業意識より転職意識が高いことがわかる。また、取引や投資などスタートアップ企業との関係を有する人ほど起業意識や転職意識がともに高い。さらに、交差項の係数がプラスで有意となったことから、起業意識は転職意識より平均的に低いが、スタートアップ企業との関係は、転職意識を高める以上に起業意識を高めている。とくに、図2に示すとおり、スタートアップ企業への投資経験のある人では、起業意識が転職意識を上回る。予想どおり、スタートアップ企業との関係は個人の起業意識と有意に関連しており、スタートアップ振興には、既存のスタートアップ企業との関係を深めるエコシステムの構築が有益といえる。
ただし、ここでの推定結果は、あくまでも起業意識と転職意識との比較にもとづくものであって、スタートアップ企業との関係とこれらの意識との因果関係を識別するものではない。また、このような比較による検証が妥当性を持つために、適切な比較対象を設定する必要がある。しかし、アンケート調査を設計する際に、比較対象として適切な質問項目を作成することは容易でない。そのために比較対象の妥当性について、議論の余地が残されている。
兄弟姉妹を持つ人であれば、幼少のころ、学業やスポーツで兄弟姉妹と比較された経験をもつ人は少なくないだろう。近年では、教育現場で児童(生徒)間の競争が排除されつつあり、比較しないことが健全な社会の創造につながる風潮が目立つようになった。しかし、実証分析の世界では、比較を通じて新たに見えてきた事実がある。研究者には、政策評価のために、これからも適切な比較を探すことが求められる。