「セレンディピティ」(serendipity) は、幸運な出会いや予想外の発見、また、その能力を意味する。セレンディピティを通じて生み出されたアントレプレナーシップやイノベーションは枚挙に暇がない。米国のグーグル (1998年設立)の誕生は、スタンフォード大学での2人の大学院生の出会いがきっかけだ。また、ハーバード大学の学生たちが集まって始めたサービスは、その後、フェイスブック(2004年設立)の誕生につながった。出会いがアントレプレナーシップやイノベーションの契機になる。
アントレプレナーシップへの期待と現実
日本でアントレプレナーシップへの期待は少なくない。その背景に、かつて世界を席巻した日本の製造業企業の凋落がある。海外に目を向ければ、米国のGAFA (グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル)、また、中国のテンセント(1998年設立)、アリババ(1999年設立)など、比較的若い企業が存在感を増している。そのためか、2018年、日本の官民によるスタートアップ支援「J-Startup」が試みられるなど、「ユニコーン」と呼ばれる高額な時価総額(10億ドル以上)を期待できるスタートアップ企業に注目が集まる(注1)。メルカリ(2013年設立)、プリファード・ネットワークス(2014年設立)など、新しい技術や新たなビジネスモデルを提供するスタートアップ企業の活躍に関心が寄せられている。
近年のアントレプレナーシップに関する議論の1つに、他の組織や人との相互依存関係に注目した「アントレプレヌール・エコシステム」(entrepreneurial ecosystem) あるいは「スタートアップ・エコシステム」(start-up ecosystem) がある (e.g., Acs et al., 2017)。アントレプレヌール・エコシステムでは、多様のプレイヤー(アクター)や要因(ファクター)が有機的に融合し持続的なアントレプレナーシップを推進する。潜在的なアントレプレナー、新しい事業に投資を行うエンジェル投資家やベンチャーキャピタル、さらに、既存の大企業、大学研究者、アクセラレーターなどとの関係を通じてアントレプレナーシップやイノベーションを生み出していく。
しかし、時系列的また国際的にみて、日本のアントレプレナーシップは必ずしも活況といえない。『中小企業白書』でたびたび指摘されている通り、バブル景気崩壊以降、開業率が停滞して久しい。国際的なアントレプレナーシップ研究プロジェクト、GEM (Global Entrepreneurship Monitor) の調査結果によると、日本のアントレプレナーシップは、国際的に低水準国として位置付けられている。起業を経験した人の割合だけでなく、スタートアップ企業を支援するエンジェル投資を行う人の割合も低い。また、起業ネットワーク(周囲で事業を始めた人とのつながり)、事業機会、技術・知識といったアントレプレナーシップに必要な起業態度も低い (高橋他, 2013; Honjo, 2015)。
スモールワールド現象
このような傾向がみられる一方で、日本ではプレイヤーや要因の関係に興味深い特徴がみられる。日本は他国と比較して、事業機会や技術・知識を有する人に限れば、起業の確率は高い (高橋他, 2013; Honjo, 2015)。また、他国と比較して、起業ネットワークを持つ人のエンジェル投資を行う確率は高い (Honjo, 2015; Honjo and Nakamura, 2019)。さらにいえば、日本の場合、起業経験を持つ人がエンジェル投資を行う確率は、起業経験を持たない人と比較して約5倍であり、その割合は米国をはじめ、多くの欧米諸国より高い (Honjo and Nakamura, 2019)。すなわち、日本では、平均的に起業やエンジェル投資の割合が低い一方、事業機会、技術・知識、起業経験、起業ネットワークを有するなどの特定の人たちに限定すれば、起業やエンジェル投資が活況といえる。
日本で特定の人たちの間で緊密な関係に基づく起業や投資がみられる一方、これを別の視点から解釈すると、アントレプレナーシップと無縁な人が多数存在することにほかならない。このことは、『中小企業白書』が指摘した「起業無関心者」の議論と一致する (中小企業庁, 2014, 2017)。いいかえれば、日本の大多数の人は、既存企業で勤務し、得た給与を銀行預金や住宅ローンに用いるが、起業やエンジェル投資に関与しない。アントレプレヌール・エコシステムの範囲が小さく、多くの組織や人をエコシステムに十分に取り込めていない。日本のアントレプレヌール・エコシステムでは、限定された人たちの緊密な関係に基づく「スモールワールド現象」(small-world phenomena) がみられる(注2)。
このような状況では、出会いの組合せが限定されて新たな出会いの確率も低下する。将来的に人口が減少することを考えると、その低下はますます加速する。アントレプレナーシップを生み出す社会を目指すならば、既存の組織から人や資金の還流が必要だ。既存企業からの転職やスピンオフ、また、銀行預金からリスクマネーへのシフトなど、かつての日本の企業や経済の慣行に逆行する流れが求められる。
大学の役割
さらに日本の特徴を挙げれば、他国と比較して大学や大学院で教育を受けた人たちのアントレプレナーシップへの関与が低い(注3)。新しい技術を有するハイテクスタートアップを生み出すために大学の役割は重要だが、それが十分に機能していない可能性は残る。この点について、アントレプレナーシップに対する日本の教育は不十分であり、起業家教育の必要性を示唆する意見もみられる (中小企業白書, 2014)。しかし、そもそもアントレプレナーシップやイノベーションに必要な教育コンテンツを明示することは難しい。また、成功した起業家たちが起業家教育を必要としたとも想像できない。起業家教育の必要性は今後の検証結果を待つことにしたい(注4)。
いうまでもなく、若い時期の出会いはその後の人生を大きく左右する。吸収能力が高く、しがらみも少ない若い時期に、新たな人や新しい技術との出会いが事業につながることは少なくない。グーグル、フェイスブック、マイクロソフトなどの誕生には、大学での人や技術との出会いがあった。ユーグレナ(2005年設立)の誕生も大学時代のミドリムシとの出会いがきっかけだ。こうした人や技術との出会いがアントレプレナーシップやイノベーションにつながっていく。
日本でアントレプレヌール・エコシステムがより効率的に機能するために、スモールワールドからの脱却が有効だ。そのために、最先端研究に取り組みたい人、事業にチャレンジしたい人たちの集まる出会いの場が必要となる。「大学発ベンチャー」への期待が高まる中、大学などの高等教育機関に、そこに行けば何か新しい出会いを予感させる、「プラットフォーム」としての役割に期待したい(注5)。最先端研究に取り組みたい人、事業にチャレンジしたい人たちにとって魅力ある出会いの場の形成こそがセレンディピティを生み出す契機となるだろう。