専門分化を背景とした新型コロナウイルス対策の難しさと経済政策の可能性

河村 徳士
リサーチアソシエイト

専門分化と解決策模索の難しさ~象牙の塔からバベルの塔へ

新型コロナウイルスが確認されてから数カ月がたち、これまでにたくさんの方が亡くなられ、また一方で生活に変化を来した人々も多いことが予想でき、同情を禁じ得ない。大変なことも多いが、引き続き、怖がるのではなく、危機意識をもって日々行動することが大切であり、そのためには、政府および専門家が発信する情報に注意し理解する姿勢が必要であると考えられる。

とはいえ、対策には難しい課題もあるようである。ここでは、対策が難しくなっていることに対して考えられる理由の一端と、それでも何らかの解決策を模索していかなければならないので、経済学の一専門分野である経済史の知見に基づいて経済政策の可能性を微弱ながらも考えてみたい。

科学の発展を促した研究者の歩みは専門の細分化を伴ってきた。かつて隅谷三喜男は、1981年に大学で学ぶ心構えを岩波ジュニア新書として発刊した際に、同書で次のように指摘した(注1)。すなわち、戦前の大学は象牙の塔と呼ばれ、外部から遮断された別世界で研究者が専門を追求し選ばれし者のみに高尚な教育が提供されていたが、1970年代に至ると、大学は大衆化した一方、研究者はさまざまな専門領域を開拓していったおかげで専門の教育時間が膨大化し教養的な科目は抑圧されていった。専門領域の多様化は、科学の発展とも評価できる反面、研究者相互の対話をどんどん難しくし、このことは、言語の違い程の相違を生み出すことによって科学の力が発揮されにくくなってきていることも示唆しているのではないかというものであった。隅谷は象牙の塔からバベルの塔へという表現によって、専門分化に基づく研究者同士の対話の難しさを懸念した。こうした事態は現代でもさして変わらないどころか、ますます強まっているのではないだろうか。

医学的な見地に基づいた専門家の合理的な判断、経済学を専攻する者の合理的な判断、統治上の専門を基礎とした合理的な判断、これらは、専門性を増したそれぞれの見地が英知を結集し解決策を模索するという前向きな事態を生むと同時に、おのおのの独自な発展の故に相互理解を難しくし、対策を具体化する段階になると政治的な決断に委ねざるを得なくなる可能性をも示唆している。政治的な決断のすべてが間違いというわけではないが、バベルの塔と表現されたような研究状況から適切な解決策を見いだすことは、容易なことではないと想像される。すなわち、さまざまな分野の専門に基づいた合理的な判断が衝突を来した場合、決断のよりどころは何に置かれることになるのだろうか。例えば、感染症対策の合理的な対応は人の接触を避けることかもしれないが、自由な経済活動の制限あるいはそれに基づいた経済活動の停滞が、損失補償の大規模化を伴い財政政策や金融政策上の合理的見地を脅かしかねないとしたら、われわれはそれぞれの専門に基づいた合理的な判断をどのように考慮すればよいのか。こうした立ち位置に、われわれの時代が直面していることを自覚した上で、対策を模索する必要があるだろう。政治的な判断は容易ではないし、それを検証するわれわれの姿勢も困難さを伴うのである。次に経済政策の方向性を考えてみたい。

世界同時多発的な需要の減退と経済政策の可能性

新型コロナウイルスの感染拡大を回避するために、各国が採用する自粛要請あるいは強制措置に基づいて人為的な需要不足が形成されている。いわば、世界同時多発的な需要の減退であり、このことは歴史的に新しい事態が起きているとも考えられる。この事態に対して日本の経済活動の対応を見通すためには次の諸点が重要だろう。

第一に、感染症対策の合理的な判断に基づいた需要の減退が、継続的なものなのか否かをできるだけ明瞭にする必要がある。難しい決断が伴うが、すでに年単位の対応を必要とする可能性が必ずしも否定されていないことを考慮すれば(注2)、「新型コロナウイルスありきの社会」を想定することも大切である。もちろん、早期に終息できれば、「新型コロナウイルスなき社会」に復帰するわけだから、新型コロナウイルスありきの社会を想定した政策を大々的に実行してしまえば後戻りは大変である。この点で政策として対応する難しさがある。とはいえ、新型コロナウイルスありきの経済活動を想定する理由は、次の懸念が考慮できるからである。

すなわち、第二に、新型コロナウイルスなき社会である現状の経済活動を想定した経済政策を行うとすれば、需要不足に対する損失補償が重要な課題とならざるを得ない。今のところ自粛要請は一時的であるとはいえ、新型コロナウイルスありきの社会が継続すれば、損失補償の打ち切りは難しい課題として浮上してくるだろう。そこで、新型コロナウイルスありきの社会がしばらく続くと想定し、何らかの経済政策を選択肢として用意することも無駄ではないかもしれない。

新型コロナウイルスありきの社会が、長期的に継続することを仮定するのであれば、新しい経済活動に向けて資源移動を促進するような産業構造政策を視野に入れていく必要があると考えられる。産業構造政策は、産業構成の変化を促すような政策介入であり、具体的には人的資源、物的な資源、必要な資金を、現状とは異なる何らかの財やサービスを生み出すために転換することである。高度成長期の頃は、資源移動を政策的な介入によって進め、経済成長を促したことがあった(注3)。目指すべき産業構成や技術水準の模範を米国に見いだし資金配分や技術探索が行われたのであった。とはいえ、たとえ新型コロナウイルスありきの社会に向けた対策として産業構造政策の意義が認められるとしても、現状われわれが暮らしている時代的な背景を考慮すると、その応用には次の難しさが伴う。

すなわち、第一に、産業構成がサービス化しており、これらが多額の設備を必要としないために、産業構造政策の1つの重要な手段である資金配分によって変化を生じさせることが難しい。第二に、より重要なことであるが、目指すべき模範を海の向こうに見出すことができた時代とは異なる(注4)。いわば未知の需要を開拓しなければならず、イノベーティブな役割が政策担当者に求められる。潜在的な需要を的確に把握すること、人々が気が付いていない需要を見いだすこと、これらに応じた革新的な資源結合を模索すること、こうした方向性を導くような政策が、視野に収められる必要があるかもしれない。難題ではあるが、さしあたりテレワークやオンライン授業を実現するために、さらなるデジタル化を促すような産業育成は、リスクの低いものとして想定しやすいだろう。また、もし自粛および休業に伴う損失補償が具体化されていくのであれば、単なる補償として継続するだけではなく、新しい方向性を模索する事業者に対して次第に手厚い援助を施すなど長期化に伴った柔軟な対応を用意しておく対策も想定できる―必要な補償は継続するべきであるが―。

病気は一面では文明が生み出すという(注5)。新型コロナウイルスの拡散は、世界規模にわたって人々が容易に移動する時代の産物なのかもしれない。そうだとすれば、繰り返しではあるが、移動と接触が回避されながらも人々が生き生きと生活できるような新たな人間社会を具体化するために、イノベーティブな産業や技術が模索される必要性が高まっているのかもしれない。創造力を豊かにして難局に取り組む姿勢が、われわれには求められているのである。

脚注
  1. ^ 隅谷三喜男『大学でなにを学ぶか』岩波ジュニア新書、1981年。工業経済論・産業史研究(石炭産業を主とする)、労働問題研究などの分野で個性的な見解を提示した隅谷は、第一期通商産業政策史編纂委員会委員長も務めた。
  2. ^ 例えば、感染症対策の専門家ではないことを断っているが、ホームページ「山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信」(https://www.covid19-yamanaka.com/)など。
  3. ^ 橋本寿朗『日本経済論―二十世紀システムと日本経済―』ミネルヴァ書房、1991年のほか、通商産業省通商産業政策史編纂委員会編『通商産業政策史6第Ⅱ期自立基盤確立期(2)』一般財団法人経済産業調査会、1991年。東アジアを対象として国際比較を視野に収めた近年の研究としては、武田晴人・林采成編『歴史としての高成長―東アジアの経験―』京都大学学術出版会、2019年。
  4. ^ もっとも、高度成長期における政策や企業活動の目標のすべてが、米国の産業構成および技術の模倣に置かれていたわけではないし、独自な成果が皆無だったというわけではまったくない。
  5. ^ 立川昭二『病気の社会史―文明に探る病因―』岩波現代文庫、2007年。

2020年4月17日掲載

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