WTO紛争解決了解改正交渉を振り返って

川瀬 剛志
研究員

現在進行中のWTO新ラウンド(ドーハ開発アジェンダ)が難航している。昨年末のTRIPS医薬品特許アクセス、3月の農業交渉モダリティーなど、相次ぐ交渉期限の徒過に続き、この5月末、非農産品市場アクセス(NAMA)交渉の関税引き下げ方式合意期限と同時に、紛争解決了解の明確化・改善に関する交渉(いわゆるDSU交渉)が交渉期限を迎え、やはり合意に失敗した。これらのうち、新ラウンド各分野での交渉決裂は、その広い産業セクターへの影響や高い政治性から注目を集めるところとなっているが、ことDSU交渉については、その高度に専門的・技術的な性質から、関心は必ずしも高くない。

しかし考えてみて欲しい。紛争メカニズムが脆弱であれば、各加盟国にWTO協定違反が横行しても、これが是正されることはない。したがって、各国が約束した市場開放は依然として無効化・侵害されたままになり、せっかくのWTO諸協定の実体的ルールは画餅に帰してしまう。その意味で手続法のあり方を議論するDSU交渉は、WTOレジーム全体の実効性を左右する交渉であり、軽視されるべきものではない。

筆者は経済産業省通商機構部においてこのDSU交渉を担当し、実際にジュネーブにおいて一連の会合に参加した。今回はその経験を踏まえ、あまり注目を集めてはいないが、その意義においては他の交渉フォーラムに勝るとも劣らない当該交渉について紹介したい。

DSU交渉の経緯

もともとDSU見直しは、WTO協定の採択を行なった94年4月のウルグアイラウンド・マラケシュ閣僚会議において採択された閣僚宣言に規定されており、DSU発効から満4年(99年1月1日)までに終了することとされていた。

実際の改正作業は97年に始まったが、99年元旦までの当初期限には合意は得られず、交渉期限を同年7月まで延長したものの、やはり合意に至らなかった。この後、日本を中心とした有志少数国の在ジュネーブ担当官により自発的に改正作業は継続されたが、シアトルおよびドーハの両閣僚会議においてその草案(いわゆる「共同提案」)の採択は成功しなかった。その代わり、ドーハ宣言パラグラフ30に、2003年5月の合意を目指してDSU交渉の開始が規定された。DSU交渉は、他の分野の交渉と異なり、一括受諾(single undertaking)の外側で、すなわち他の分野の交渉成果とは関わりなく「前倒し」で合意することを目指して行われることとなった。

今回のドーハプロセスは、2002年2月、貿易交渉委員会(TNC)による紛争解決機関(DSB)特別会合(議長:バラシュ在ジュネーブ・ハンガリー大使)の設置によって開始された。以後、公式のDSB特別会合はこの5月末までに13回を数え、更により詰めた議論のために、前後および合間には提案提出国を中心とした非公式会合が招請された。2002年内、各国はまずコンセプトレベルでの提案の説明を終え、その後これを論点ごとに取りまとめて議論した。年明けに実際の条文ベースでの提案を募り、1月末にほぼ提案が出そろうと、以後の会合では詳細な条文の文言に関する検討が行われた。

真摯な会合が何度となく開催されたにもかかわらず、多くの提案については既に理念ベースの段階で各国間の溝は埋まることなく、また、提案されたテキストには文言の欠陥や実施可能性に疑問があるものが少なくなかった。このため、議論は紛糾し、最終合意のベースとなる議長テキストがようやく出てきたのは5月16日になってからだった。翌週5月19日からの2週間は特に非公式会合出席国の代表団は週末も返上し、時には夜半近くまで連日精力的に議長テキスト細部の詰めを行ったが、合意形成には遅きに失した感があった。

結局、各国は合意に至ることなく、5月28日午後3時からの最後のDSB特別会合を迎えた。会合では、前週からの討議を踏まえ議長テキストの修正版が配付されるとともに、この修正版テキストを添付した議長報告(TN/DS/9[PDF:248KB])が議長の責任においてTNCに上程されることだけが報告された。これに対して各国は、交渉の結果に対する遺憾の意と、交渉継続の賛否について無難な公式見解を読み上げるにとどまり、閉会した。

各国の提案との交渉ポジション

次に今回のDSU交渉における各国の交渉ポジションを簡単に紹介しておきたい。まず四極は、少なくとも提案の上ではおおむね紛争解決手続司法化の方向性を示す日本、EU、カナダに対し、紛争当事国の手続的裁量を重視する米国というのが簡単な見取り図と言える。これに途上国(LDC(後開発途上国)グループ、アフリカ諸国グループ、インド、中国、パラグアイなど)が紛争解決手続における途上国の優遇(いわゆるS&D)に関する提案を行い、このほかブラジル、メキシコ、コスタリカ、タイ、韓国などがそれぞれ特色のある提案を提出した。

まず、日本およびEUは、現行DSU21条5項に規定される違反措置是正に関するDSB勧告の実施確認パネルから、同22条の対抗措置の承認・実施に至る順序(いわゆるシークエンス)を整理すべく、詳細な改正案を提出した。曖昧なシークエンスはEUバナナ輸入制度ケースの実施において米・EU間における紛争を引き起こしており、その明確化はシアトル前からの「共同提案」以来の懸案となっていた。このため、今次DSU交渉の各提案の中でも最も象徴的で、精緻に法文化されたものとなっている。

更に各国個々の提案を見てみると、日本は、WTO違反措置を行政府に義務づける法令に対する対抗措置、繰り返されるWTO違反の行政裁量の差し止めを勧告する権限のパネルへの付与など、シークエンス提案と合わせて違反措置に対するDSU勧告の執行力の強化に重点を置いている。他方、EUは紛争解決パネル(第一審に当たる)の常設化、差し戻し審(上級委員会の法的判断に必要な事実認定がない時、これをパネルに差し戻す制度)の導入など、パネルの権限強化を意図した提案が目立つ。また、米国との紛争案件(先のバナナケースに加え、ホルモン投与牛肉ケース)の教訓から、対抗措置の対象品目リストの定期的変更(いわゆるカルーセル)の禁止を提案している。更に、司法化の方向性はカナダも同様で、パネリスト候補者の名簿拡充、およびパネルに提出された営業秘密情報(Business Confidential Information-BCI)の保護を提案した。

これに対し、米国はまず透明性提案を行なった。WTOパネル・上級委員会の秘密性・閉鎖性に対する市民社会・議会(特に民主党)の批判を背景に、パネル審理や各種文書の一般公開、およびアミカス・ブリーフ(紛争当事者ではないNGO等がパネルの判断の参考に供する意見書)の受け入れを導入しようとするものである。これに続き、今度はチリと共同で上級委員会に中間報告や手続の停止を導入し、報告書の一部を当事国の合意で削除するか、あるいは加盟国のコンセンサスで不採択にできる提案を提出したが、これは上訴手続の自律性を当事国のコントロール下に置き、半常設化された上級委員会の自立的な協定解釈を制限するものである。荒木上席研究員のヒューデック教授追悼コラムにおいて、DSUの行き過ぎた司法化・自動化に対する批判が紹介されているが、まさにそれを具現化した提案となっている。

発展途上国のいわゆるS&D提案は、基本的には紛争解決手続において途上国の知見、人的資源、社会経済的実情、あるいは財政能力に鑑みた負担軽減なり配慮なりを求めるものである。比較的分かりやすい提案としては、手続きの各段階でより長い時間的枠組みを求めるもの(たとえばより長い協議期間、書類提出期限の延期等)や、パネリストに途上国出身者を入れ、途上国の経済発展への影響を勘案した判断をパネルに求めるものが挙げられる。

しかしながら、中には仲裁の強制、途上国の権利侵害に対する遡及的な金銭賠償、途上国による集団対抗措置など、DSUの性質を根本的に変える提案も見られる。また、訴訟費用負担や、途上国の紛争解決手続利用能力向上のための基金設立など、財政負担を伴う提案も含まれており、受益しない国々(とりわけ先進国)にとっては受け入れ難い。更には、途上国が被申立国となる紛争案件付託の制限(中国提案)、パネル・上級委員会報告に基づくDSB勧告実施期間の延長(インド提案)など、手続を通じて途上国のWTO協定上負うべき実体的義務を実質的に緩和することを狙ったものもあり、多角的貿易体制の強化に資するものとは評価できない提案も含まれていた。

以上のような多岐にわたる提案について、各国の交渉ポジションを近似させることは難しい。特に上記のようにS&D提案の一部は極端なものであり、これをめぐる先進国と途上国の乖離は、埋め難いものがある。他方、たとえば透明性提案は日本を除いて先進国の支持は一般的に得られるものの、途上国にとっては受け入れられないものであり、ここでも南北対立が顕在化している。

また、先進国間でも、司法化志向の三極と、当事国裁量を重視する米国には意見の乖離があることは明らかにしても、三極間についても総論賛成、しかし個別の提案については各論反対となる。たとえば、EUのパネル常設化、および日本の義務的・裁量的法令に関する提案など主要提案が議長テキストから落ちているが、これは三極の支持すら固まりきらなかったことを示唆するものに他ならない。また、「共同提案」以来の歴史があるシークエンスでさえ、オーストラリアのように複雑すぎる(overnegotiated)として単純化を指向する国もあり、更にもっとも熱心な推進役である日・EU間でさえも履行確認パネルの前に協議を行なうか否か等、細部につき最後まで厳しい応酬があった。

結局のところ、殆ど争いの見られない主要提案となると、コスタリカを中心に提案されたパネルへの第三国参加の拡充、米国の提案による当事国によるパネル手続の停止などの無難なものに限られた。全ての加盟国を満足させる有意な合意パッケージの形成は、もとより困難であった。

何故交渉はまとまらないか

このように交渉では各国の提案・交渉スタンスが乖離しており、複雑な利害関係の構図に陥ってしまったが、なぜこれまで4度合意に至ることなく、更にこの5月末を迎えたのであろうか。その理由について筆者は以下のように見ている。

第一に、前節に述べた提案・交渉スタンスの乖離は、哲学レベルでのDSUのあり方につき、加盟国の意見が相違していることを示している。現行のDSUは国際司法コントロールが機能しており、より裁判手続に近いといわれる(この点につき小寺ファカルティーフェローの『WTO体制の法構造』第4章参照)。先に述べたように、三極(特にEU)は基本的にこれを更に押し進め、逆に米国はGATT時代のより外交フォーラムに近い手続に押し戻そうとした。ある程度の司法化・執行力の強化を大筋で合意しつつ交渉を進めたウルグアイラウンドとは、この点で大きく異なる。

第二に交渉自体の性格は極めてhorse trading(馬市のこと。転じて抜け目のない取引)である一方、交渉対象の性質上、高度に技術的な法的整合性を要求される点で極めてまとまりにくい。たとえばサービスやマーケットアクセス交渉は、交渉当事国の利害が一致すればそれでよいが、DSU交渉においては交渉アイテムの合意に加えて、それを盛り込んだテキストの起案と協定全体の整合性が必要になり、この調整が困難を極める。たとえばシークエンスそれ自体は有用としても、手続そのものの時間的枠組みが延びてしまう問題が生じる。同様に、差し戻しはアイデアとしては広く支持されたが、具体的な条文の起案が難しく、頓挫した。

第三に、議長報告にもあるように、基本的に今のDSUはよく機能していると認識されており、各国にDSU改正にそれほどのステークがない。したがって、各国に自国提案の一部または全部を撤回する妥協の余地が少なく、交渉がまとまりにくい。昨夏の外務省新ラウンドメルマガ16号において、DSU交渉の状況が「ショッピング・リスト」になぞらえられているが、特に先進国にとっては、現状のDSUに+αを求めるためにわざわざ途上国のS&D要求を受け入れることは、高い「買い物」である。

第四に、各国が個別紛争の「トラウマ」に基づく提案と交渉ポジションを取ったことから、それぞれに妥協の余地が少なかった。EUのシークエンスとカルーセル防止は、EUバナナ・ホルモン両ケースを教訓としたものであることは既に述べた。同様に、米・チリ提案は正に連戦連敗の米輸入救済法関連の紛争案件から生まれる不満の解消である。ブラジルとカナダのそれぞれ裁量的法令による同一違反の繰り返しに対する加速的手続の適用、ならびにBCI保護は、一連の民間航空機補助金紛争の経験に基づく。同様に、途上国のアミカスに対する拒否反応は米エビ=カメケースの経験によるところが大きい。

最後に、一括受諾のパッケージ外であること。ウルグアイラウンドのように広い交渉分野がある場合、各国はそれぞれ自国が成果を得たい分野とそうでない分野で譲許を交換する(たとえば農産品自由化を行なうかわりに、AD協定を自国に有利に改正)トレードオフが可能となる。しかしながらこの範囲がDSUに限られるとなれば、このようなトレードオフは起きにくい。特に途上国はS&Dをこの中で達成しなければならないとすれば、自ずと先進国に対して譲れる余地は少なくなる。

DSU交渉の今後

今後のDSU交渉の運びについては、さる6月10および11日にTNCにおいて議論されたが、何らかの形で交渉継続を支持する声が多いと聞く。この後、7月末の一般理事会においてその扱いが決まるが、9月のカンクンにおける閣僚会議後に再開されるという見方が少なくない(Inside U.S. Trade, May 30, 2003, at 1)。

しかしながら筆者としては、前節で指摘した問題点が解消されないかぎり、交渉継続の意義には懐疑的にならざるを得ない。たとえば、DSUは「全加盟国・地域が共有する国際インフラで、取引材料にすべきでない」(日経新聞平成15年5月27日朝刊11面)という見方もあろうが、ドーハ宣言のマンデートを見直し、DSU改正を一括受諾の対象に戻すのも一案である。すなわち、このことによって全ての国がDSUという自己完結的な領域でのみ利得を得ようとせず、紛争解決手続に本当に利害を有する国々だけが、他分野の交渉でコストを払いながら真摯に交渉に臨む体制が生まれる余地ができるからである。

また、「共同提案」の遺産を引き継ぐこれまでの議論は、必ずしもDSUの現在の問題状況を的確に反映しているとも思われない。たとえばシークエンスは、現行協定の下でこれに元来否定的な米国を含め、アドホックな合意で解決する慣行が既に形成されており、もはや喫緊の課題ではない。むしろ最近は、米バード法ケースや米鉄鋼セーフガードケースなど多数国間紛争に固有の手続的問題のほうが、ジュネーブが直面する日常的課題と聞く。

今本当に必要なことは、こうした新たな問題を含め、もうしばらくDSU利用の実績を重ね、シークエンスのように慣行で繕える部分、あるいは本当に可及的速やかに改正が必要な点を再考することではないか。各加盟国は、自分が現行DSUを不満足なものと感じ、本当に欲しいものの「ショッピング・リスト」ができ上がるまで、しばらく頭を冷やすというオプションも真剣に検討してはどうだろうか。

※ 本稿の執筆にあたっては、筆者と共にDSU交渉にあたった松田弥生氏(在ジュネーブ国際機関日本政府代表部一等書記官)から有益なコメントをいただいた。記して謝意を表する。なお、本稿の意見にかかる部分は筆者個人のものであり、日本政府およびRIETIの見解を代表するものではない。

2003年6月17日

2003年6月17日掲載