中国経済新論:実事求是

「中所得の罠」を警戒する中国

関志雄
経済産業研究所 コンサルティングフェロー

(『あらたにす』新聞案内人 2011年4月28日掲載)

「中所得の罠」とは 2007年の世界銀行の「東アジアの復興」という報告書で提起された概念である。それによると、多くの発展途上国は、「貧困の罠」から脱した後、「テイクオフの段階」に入り、一時的に高成長を遂げるが、一人当たり国内総生産(GDP)が中レベルになると、貧富の差の拡大、腐敗の多発など、急速な発展に伴う歪みが顕在化し、経済成長も停滞するという形で「中所得の罠」 に陥ってしまうのである。ブラジルや、アルゼンチンなどが、その典型例である。

中国は、昨年の一人当たりGDPが4000ドルを超え、まさに「中所得の罠」に陥るか、それとも一気に先進国に追いつくかという岐路に立っており、その今後の行方が内外から注目されている。

大衆は悲観的

中国国内では、多くの新聞や雑誌が「中所得の罠」の特集を掲載している。その中に、『人民論壇』誌が「中所得の罠」をテーマに行ったアンケート調査がある(2010年7月)。それによると、専門家の間では、中国が今後も順調に成長していくという楽観論が支配的であるのに対して、一般大衆の間では、「腐敗が多発し、これに対して国民の不満が高まっている」「貧富の二極分化が進み、階層が固定されている」――ことを原因に中国が「中所得の罠」に陥る可能性が高く、また「腐敗により政府の権威が低下している」「既得権益集団が改革を妨げている」「社会保障と所得分配の改善が難しい」――ことを理由に、「中所得の罠」を回避することが難しいと懸念する声が多い。また、今年の4月に海南島で開かれたボアオ・アジアフォーラムにおいて、「中所得の罠」が主要なテーマの一つとして取り上げられ、それを回避するための各国の取り組みが報告された。

米国の『ニューヨークタイムズ』紙(2010年10月25日付)や、イギリスの『エコノミスト』誌(2011年4月16日号)など、海外の主要メディアも、相次いで中国が「中所得の罠」に陥る可能性を指摘している。

「調和の取れた社会」を標榜

「中所得の罠」という言葉こそ明示されていないが、近年、中国政府は、急速な発展に伴う歪みを是正し、経済成長を持続させるために、「成長パターンの転換」と「調和の取れた社会」の構築に取り組んできた。

まず、これまで無尽蔵といわれるほど豊富な労働力が中国の高成長を支えてきたが、発展の過程における完全雇用の段階と高齢化社会が近づくにつれて、高成長を維持していくためには、労働力をはじめとする投入量の拡大による成長(粗放型成長)から生産性の上昇による成長(集約型成長)に転換しなければならない。それに向けて、政府は、企業の自主イノベーション能力の向上、産業構造の高度化に加えて、国有企業の民営化を実質的に認める「国有経済の戦略的再編」を進めている。

一方、所得格差の拡大や、幹部の腐敗、環境の悪化などを背景に、労使争議や集団暴動が頻発し、社会が不安定化している。これらの問題に対応するために、胡錦濤政権が2002年に誕生してから、「調和の取れた社会」の構築を旗印に、発展戦略を従来の成長一辺倒から公平や環境を重視する方向へ改めようとしてきた。中でも、①都市と農村の発展の調和(農村の発展を重視し、農民問題を解決する)、②地域発展の調和(後発地域を支援する)、③経済と社会の発展の調和(雇用を拡大させ、社会保障制度や、医療・教育といった公共サービスを充実させる)、④人と自然の調和のとれた発展(資源の節約と自然環境の保護を重視する)、⑤国内の発展と対外開放の調和(対外開放を堅持しながら国内市場の発展を加速する)――からなる「五つの調和」に加え、腐敗撲滅が強調されている。

政治改革が必須に

しかし、立派な政策綱領ができても、いざ具体論になると、総論賛成・各論反対の壁にぶつかり、所期の効果を上げるに至っていない。その背景には、現在の中国の「権威主義体制」の下では、政策決定に当たり、農民などの弱者よりも、権力を握っているエリートたちの発言権がはるかに強いことがある。

まず、生産性の向上を通じた成長パターンの転換のカギとなる大型国有企業の民営化が遅れている。これまで、中国は、中小型国有企業を先行させる形で民営化を進めてきたが、その一方で、独占の地位を利用して巨額な利益を上げている大型国有企業の民営化は、既得権益層の抵抗に遭い、なかなか進んでいない。特に、2008年9月のリーマン・ショックとそれに対応するための政府の4兆元に上る景気対策の実施を受けて、それまでの「国退民進」(国有企業のシェア縮小と民営企業のシェア拡大)とは逆に、インフラ建設や不動産開発を中心に、一部では「国進民退」(国有企業のシェア拡大と民営企業のシェア縮小)の動きが目立っている。

そのうえ、「調和の取れた社会」の構築も前途多難である。所得格差を是正するためには、農民の都市への移住の自由を制限する戸籍制度など、弱者への差別をなくし、農民の土地所有権を認めなければならないと議論されているが、いまだ実現されていない。また、「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」という歴史学者J・E・アクトンの名言の通り、権力が制約されなければ、政府がいくら撲滅キャンペーンを展開しても、腐敗という問題は解決されないだろう。さらに、環境問題を解決するためには、法整備に加え、市民団体やマスコミによる政府と企業への監督や、裁判所による公平な判決も欠かせない。しかし、現在の一党支配体制の下では、このような条件を確立することは困難である。

中国にとって、政治改革は、成長パターンの転換と調和の取れた社会を実現し、「中所得の罠」を回避するために、ぜひとも必要である。

2011年5月9日掲載

2011年5月9日掲載