日本経済を活性化するために経済特区を導入することが経済財政諮問会議での検討課題となった。その狙いは、税制などの優遇措置を講じる特定の地域を設けることで、外国の企業や資本を積極的に導入し、経済活性化の起爆剤にすることである。その推進役である竹中経済財政担当大臣が自ら認めるように、こうした考え方は、中国の経験に啓発を受けたものである。中国の経験から、日本は何を学ぶべきであろうか。
中国では、改革開放に転じた当初の1980年に、広東省の深セン、珠海、汕頭、福建省のアモイが経済特区に指定され、1988年には海南島が追加された。経済特区では、政府の資金によってインフラが整備され、進出する外資に対して所得税、原材料輸入、出入国などの面で優遇措置が採られている。特区は国内と外国の経済交流の窓口として、改革の実験の場として、そして改革の模範としての役割が期待されたのである。
改革開放政策が導入されるまで鎖国に近い政策を採ってきた中国にとって、経済特区は外国のモノ、ヒト、カネ、情報と出会う場になった。インフラ投資と外資の導入を特定の地域に集中することにより、投資や行政面での効率化を図る一方、当局が懸念した「資本主義による汚染」も最低限に抑えることができた。
また、経済特区では思い切った制度改革を含め、様々な実験を行ってきた。経済改革は多くの場合、前例のない未知の世界への挑戦であるため、計画通りの成果を挙げるとは限らない。当初は確実に成功するかわからない改革を思い切って実行できるのも経済特区の利点であった。経済特区という限られた地域でのみ改革を実行することで、改革が失敗に終わった場合でも、その悪影響を最小限に止めることができた。改革が成功した場合は、その方法を全国区へと普及させることが可能となった。外資に対する優遇策はもとより、価格の自由化、土地使用権の自由売買、国有企業の株式制の導入といった制度変革においても、経済特区は全国の先鞭をつけていた。
さらに、経済特区は他の地域にとって改革開放の手本ともなっていた。特に、天安門事件を受けて、改革が停滞局面に陥った時、改革の加速を狙って鄧小平氏が92年の春節に深せんを視察し、「南巡講話」を発表した。当時中国では姓「資」姓「社」論争(中国は社会主義なのか資本主義なのか)が起きていたが、そこで鄧小平は経済特区の目覚しい発展を根拠に、改革開放に反対する保守派の主張を牽制し、改革開放政策のさらなる発展の大号令を発した。そして、この南巡講話を契機にして、改革開放が再び軌道に乗ったのである。
しかし、今に至って、経済特区は成功を収めたがゆえに、その歴史的役割を終えようとしている。
まず、特区に与えられた色々な特権は他の地域にも適用されるようになった。実際中国の改革開放は、経済特区という「点」から始まり、沿海地域という「線」に、さらに内陸部を含む「面」に広がってきた。特に、WTO加盟を経て、中国経済はまさに全面開放の段階に入り、特区の優位性は一段と薄れている。一部のWTOの無差別原則に違反する優遇政策は漸次改めなければならない一方で、他の地域も特区とほぼ同じ条件で、直接に海外ビジネスを展開できるようになったのである。その結果、特区に投資する魅力が低下し、改革開放当初は経済特区に集中した海外からの直接投資は他の地域に分散するようになった。
また、経済特区にいつまでも特権を保証すべきではないという世論も90年代半ばごろから浮上している。特に、国内の地域間の経済格差が広がる中で、政府は経済特区よりも遅れている農村や内陸部の開発を優先すべきであるという考え方が主流となってきた。これを受けて、中央政府も財政支援の対象を経済特区から、内陸部に重点を置かざるを得なくなった。
このように、経済特区は中央政府の優遇策に頼って発展する段階が終わった。これからは、一歩先に対外開放してきた豊富な経験という「先発性」のメリットを活かして、ハイテクやサービスといった分野において、新たな優位性を確立しなければならない。中国のこうした経験から、日本も特区を導入するに当たっては、「退出」のアジェンダを前もって用意しておくべきである。
2002年5月2日掲載