中国経済新論:中国の経済改革

民主化の前提となる法治の確立

韓朝華
中国社会科学院 経済研究所ミクロ経済研究室主任

1953年上海生まれ。1982年8月~1987年8月まで中国社会科学院幹部管理学院にて教鞭を執る。1987年中国社会科学院 大学院卒、経済学修士。同年より中国社会科学院経済研究所に勤務、現在ミクロ経済研究室主任。1991年~92年に滋賀大学、神戸大学にビジティングフェ ローとして、また、1997年にはアジア経済研究所客員研究員として訪日している。主な著作は『競争戦略与国有企業』など。

ここ数年、改革の再考をめぐって、群衆の感情が高ぶり、さまざまな意見が出されている。再考が進むにつれ、政治・社会に関する意思決定の公開化と民衆の参加と政治の民主化が必要であることが国民の共通認識になっている。中国指導者も早くから民主化の必要性を認識しており、90年代に始動した村民自治と村民委員会の選挙の試みはその証である。しかし、政治の民主化を改革の日程に上げる今、民主の本質と前提条件をより慎重に認識し、分析する必要がある。

民主政治の具体的な体制・形態や実現方法は多種多様であるが、少数が多数に従うという集団的な意思決定の過程であるという点において共通している。このような意思決定の過程を経て生まれた意思決定の結果は、集団の意思決定者が複数の方案あるいは複数の候補者のなかから選別した結果であり、したがってこれは異なる方案と異なる候補者が競り合った結果でもある。これまで、国内における政治の民主化に対する認識と実践も基本的にこの点に着目し、民主化に関する各種議論や改革提案は、その具体的な対象分野が何であれ、ほとんどがある種の議決の方法あるいは選挙の方式に焦点を当てている。村民自治がそうであり、人民代表大会代表の選挙制度改革もそうで、党内民主に関する議論もそうである。この結果、中国が政治の民主化を必要とするかに関する論争は、事実上、このような投票メカニズムあるいは(候補者の数が定員を上回る)差額選挙メカニズムを必要とするか、という論争に変わった。しかし、政治の民主化に関する考えは、この点にとどまるだけでは極めて不十分である。

一、民主と法治

選挙と多数決は民主体制の表面的な形式に過ぎず、本質ではない。民主の本質は、社会の意思決定の公衆化とプロセス化で、その反対は社会の意思決定の個人化と独断化である。民主体制は社会の多数の構成員の意見を反映し、守ることを趣旨としているが、民主のメカニズムはすべての社会分野をカバーするわけではない。一部の重要な社会原則にかかわる問題については、多数決という民主的な意思決定の原則に基づいた選択は決して許してはならない。たとえば、民主的な意思決定の方法を使って個人の自由・生命・財産の安全に干渉することは認められず、これらに関する決定は社会の認可された専門家(裁判官)による既定の司法手続きを通さなければならない、などである。また、民主体制自身の存続と廃止について民主的な意思決定のプロセスにかけられること、すなわちいかなる状況下でも多数決の原則に基づいて民主体制を否定する決定は認められない。有効な民主体制は必ずなんらかの制約を受けなければならない。

このように、安定的で有効な民主体制では、多数決という政治の意思決定メカニズムあるいは原則は絶対至上ではなく、より基礎的、統括的な原則――法治(rule of law)の構築と保護の原則――に制限される。法治社会の基本的な枠組みと原則にかかわる問題については、多数決という民主の原則は道を譲らざるを得ない。

法治社会の確立は、ルールに対する社会の構成員の意識が高度に一致することにかかっており、多数の社会の構成員あるいは集合体が社会のルールを守ることを自身の利益の最大の拠り所とする必要がある。法治が確立されている民主社会では、構成員は多くの具体的な問題に対して、立場と考え方が極めて多様だが、集団の意思決定のプロセスとルールを尊重することについては完全に一致している。具体的な利益と方案の取捨選択について争われるが、法治社会の基本原則――ルールとプロセスに対する服従と尊重――については、疑う余地がないし、侵害することも許されないのである。このように、法治が民主の前提条件であり、民主は法治によって制約されるのである。

したがって、ある社会に有効かつ公正な民主体制が確立されるかどうかは、その社会における多数の構成員が法治を受け入れるかどうか、すなわち法治の価値がその社会において一元化した主導的な地位にあるかどうかによる。法治が徹底していない社会では、往々にして民主が歪められ、さらには有名無実になってしまう。この点を見過ごして、民主化とは、単になんらかの多数決の意思決定メカニズムを作り、あるいは差額選挙制度を導入することであると考えてしまうと、「民主幼稚症」に陥ることになる。

二、中国と法治

「民主幼稚症」の危険性は今日の中国においてもそれなりの現実味がある。中国は千年にも及ぶ専制の伝統のある国で、中国の政治文化の遺産のなかに、徳治の文化や人治の文化はあるが、法治の文化はない。二千年以上前に形成された法家の学説はむろん法で国を治めると強調するが、彼らの提唱する法は「王法」である。これは、法家の法理の枠組みにおいて、立法権と司法権は皇帝およびその配下の官僚に帰属するが、皇帝と官僚自身は法律を超えた存在で、法律の拘束を受けないのである。このため、法家が崇める「法で国を治める」ということは法制(rule by law)であって、法治(rule of law)ではない。その主な違いは、立法者と司法者が法律を超えるか、それとも法律の下にあるか、つまり法律に制約されるかどうか、という点にある。理論的には、法制の場合でも司法者に対し一定の制限がかかる。しかし、立法権と司法権を制約する正式なメカニズムがないため、立法者と司法者には個人の裁量と機会主義的行動の余地が非常に大きい。その結果、立法と司法の過程自身に確実性と予測性がなくなり、法律は権力者が独断で自分自身の意思を貫く道具に化してしまう。法律の厳粛性、安定性と公正性が全く守られていないのである。

このような体制の下で、決定的な役割を果たすのは法律でなく、権力者の意志と権力である。立法者と司法者は、法律に制約されないだけでなく、法律を恣意的に変更、解釈することができる。法律は、下に対し機能するだけで、上に対して機能せず、政権維持の手段にすぎない。また、このような法律が具現化するのは権力であり、ルールではない。このため、法を守るのは権力がなく地位のない人だけで、法律の拘束を受けない特権を享受するのは、権力や、地位、さらに能力があることの表れである。このような社会では、権力を追求することは、法律によって拘束されない自由を追求するということになる。このようなことに影響され、中国社会の長い歴史では遵法意識が形成されていない。中国人は、今でも法律の拘束を受けないことを有能で栄誉あることだと考えがちである。このことは、中国の文化において法律の権威を認め、敬う意識が欠けており、法律の有効性と安定性を自分自身の利益の拠り所だと真剣に考える人が少ないことを決定付けた。その結果、自発的に、自覚的に法律を守る人が少なく、特に法律を守ることと自分自身の利害と衝突するときはなおさらである。

このような社会文化の環境下で、民主体制の有効性を確保することは難しい。なぜならば、民主体制が重視するのは、意思決定のプロセスとルールであり、意思決定の具体的な結果ではないからである。プロセスが合法で、ルールが有効であれば、結果は全員に受け入れられる。しかし、ある社会において法治という理念がなく、社会の構成員がルールから外れ、法律から逃れることを有能なことだと見なすとなれば、民主的プロセスに合致した意思決定の結果であっても、受け入れられるとは限らない。このような社会に安易に多数決の意思決定メカニズムあるいは選挙制度を導入しても、うまく機能しないだろう。文化大革命の最中に一時大いに流行っていた「大民主」(派閥間の闘争)というのが、この証左と言える。あれは民主ではなく、恐ろしい動乱と暴政である。

この点を理解した上で、再度、中国における政治体制改革を見ると、政治の民主化の具体的内容は単に多数決による政治の意思決定プロセスと選挙メカニズムの構築にとどまらず、社会文化の抜本的な転換――法治がなく法治を熟知しない中国社会から、法治を尊重し、法治に依存する社会への転換――をも含めなければならないことが分かる。これは一種の「ソフト面における」文化インフラの整備である。このような社会文化の基礎があるかどうかは、民主体制が中国に定着するかどうかを決定付ける。

目下の改革の実践において、何れかの民主的な意思決定制度の導入について議論するとき、往々にして激しい応酬が繰り広げられる。民主化が民衆の要請と「政治的に正しいこと」(ポリティカル・コレクトネス、political correctness)になっている今日、民主体制の導入を遅らせる主張が保守的で、反動的であると批判されることは避けられない。しかし、民主が法治に依存していることと、中国文化における法治の伝統の欠落という現実が分かれば、民主化の推進にあたって、幼稚なロマンを捨てて、地に足の着いた考えを持てるかもしれない。今日の中国で民主化を推し進めるのであれば、まず法治を確立しなければならない。法治が確立できなければ、民主化も望めない。

文化と価値の体系の転換はゆっくりとした過程であり、長い時間をかけて、進化、浸透させてはじめて効果が現われるもので、紙切れ一枚の政令や、大量な立法あるいは一回の革命で完成できるものではない。近代中国の改革者は、指導思想において、民主化を純粋に政治的な変革過程とするのではなく、社会の変遷と文化の転換の過程として捉えなければならない。

ここ数年間の改革再考により、国民は、政治体制改革の必要性と緊急性を認識している。しかし、政治体制改革は、政府権力と政治の意思決定メカニズムにだけかかわる単純な問題ではない。中国における政治の民主化の成敗は、中国社会の多数の構成員の政治に関する価値観と密接に係わっている。選挙制度あるいは多数決の投票制度を作りさえすれば、権力が制約を受けない状況を変えられると幻想してはならない。また、民主的な意思決定メカニズムを導入すれば、法律を守らず、法律を厳格に執行しないという根深い病が簡単に治ると考えてはならない。民主は、制度形式上、法定のプロセスと集団的な意思決定のルールに過ぎず、多くの法律が尊重されず有効に執行されない社会では、法律によって決められたプロセスとルールが確実に実行されるという保証はない。

今日の中国が一気に政治の民主化の段階に入ることは難しい。中国の現在の政治構造から出発し、民主体制が確立されるまでの間には、法治文化と法律の権威性の確立を助け、民主憲政の確立のための社会の下地を整える過渡的な体制が必要である。

三、急進と漸進

現状では、中国が政治の民主化を推進するに当たって二つの方策がある。ひとつは、ある形態の民主的な意思決定のメカニズムの導入を急がず、既存の法体系の強化と整備から着手し、具体的な制度の革新と改革を通じて、法を守らず、法律を厳格に執行せず、様々な政府部門が法令を出して牽制し合い、法律に一貫性がない、といった問題を着実に解消し、これによって高官から庶民まで社会全体が法律とルールを尊重、信頼するようにさせ、法律の権威を確立させる。その上で、関連する民主的な意思決定のプロセスとルールの体系を導入する。もうひとつの方策は、民主の前提条件を無視し、法治の理念がまだ社会の主流的な価値になっていない状況下で、多数決による政治的意思決定のメカニズムを導入する。

一見すると、ひとつ目の方策は、遠回りしており、早期に成功することが難しく、ふたつ目の方策は問題の核心を突いており、容易に成果を上げるようである。しかし実際には、法治文化の基礎がない社会で、多数決による政治的意思決定のメカニズムを無理矢理に作っても、社会全体が法律によって決められる意思決定のルールを尊重しないため、民主的な意思決定プロセスによる選択の結果が自分自身の利益と一致しない場合、関連する利益集団が自覚的に受け入れることは難しい。その結果、民主体制の運営は、常に合法性を巡る挑戦に見舞われることになる。そのような状況下で、民主体制が形式的に作られても、実際の運営においては、脆弱であり、効果もない。民主体制が社会に根ざし、かつ有効に機能するには、社会がルールとプロセスの至上性を受け入れるのを待つほかない。そして、これは、法治の価値とルールの尊重に関する啓蒙の努力とその成果に左右される。二つ目の政治の民主化の方策は、素直に見えるが、実際には盲目的で役立たず、「急いては事を仕損じる」ことになる。

さらに、法治文化のない社会に外部から強引に法治の価値観を前提とする政治体制を移入し、伝統的な行政統制型社会の統治に取って代わると、社会の統治が利かなくなりやすく、さらには民主体制を歪めてしまう可能性がある。今日の世界において、民主体制の国は多いが、その運営に真に成功した民主国家はごく限られている。その原因は、多くの国が公式的な制度形式として民主体制を作ったが、社会の非公式的な制度基礎に法治とルールに対する尊重を定着させることができなかったことにある。これら社会の民主体制は非公式な制度のサポートがないため、源泉のない川、根っこのない木に等しく、むしろ厄介な荷物になってしまっている。

民主の実施には法治の確立が必要ではあるが、両者のタイミングが厳格に分かれる、完全に別々の過程であると理解すべきではない。実際、民主と法治は共生共存で、表裏一体である。本文の狙いは、民主化を否定することではなく、あくまでも、民主化の過程の複雑性と、政治的な公式制度の文化的、社会的な非公式制度に対する依存性に鑑み、政治の民主化を単なる選挙制度あるいは投票制度の導入だと理解してはならないことについて、国民の注意を喚起することである。民主体制は、複雑な社会システムであり、その有効性はそれに対応する非公式な制度が整備されているかどうかに左右される。また民主体制はとても脆弱で、その定着と成長に適する社会環境でなければ、歪められやすい。法治文化の啓蒙が欠け、法治理念が主流的な社会価値になっていない状況下で、安易に民主体制の導入を試みても、期待通りの成果は得られないだろう。

2009年2月17日掲載

出所

韓朝華氏からの寄稿
※和訳の掲載にあたり著者の許可を頂いている。

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