中国経済新論:中国の経済改革

問われる「先富論」の功罪

韓朝華
中国社会科学院経済研究所ミクロ経済研究室主任

1980年代に、「一部の人を先に豊かにさせる」というスローガンが中国全土に響き渡った。文化大革命による混乱の収拾に取り掛かっていた当時、このスローガンは平均主義を鼓吹し、個人の蓄財に反対する極左の理念を批判していたため、確かに人々を興奮させ、解放感をもたらした。このスローガンにより、長期間にわたって抑圧された国民の経済の潜在力は解き放たれ、社会にあった左傾という足かせが消え、さらに社会が改革・開放に動き出す理念的な支えとなった。しかし、特に80年代以降の社会の変遷の軌跡とその結果から改めてこのスローガンを分析すると、これは欠陥のあるスローガンであると認めざるを得ない。なぜなら、このスローガンの流行は、中国社会に大きな悪影響をもたらしたからである。

人々が豊かになることを目指すとき、その方法と手段は多種多様である。例えば、技術発明、製品革新、コスト削減、品質改善、サービス改善などは、社会全体の利益或いは他者の利益を増やす。一方、偽物の製造・販売、環境汚染、レントシーキング行為、賄賂、脱税、密輸、麻薬の販売、詐欺などは、社会全体の利益或いは他者の利益を損なう。経済学では、一般的に前者の方法を「生産的」、後者の方法を「非生産的」とする。多くの場合、適切な規制と規範がなければ、非生産的な方法による蓄財の方が、生産的な方法による蓄財より簡単であることは明白である。有名ブランドの偽造は有名ブランドの育成よりも簡単で、環境を汚染しない生産は環境を汚染する生産よりコストが高いなど、例を挙げればきりがない。このため、法律などによる適切な誘導が存在しなければ、人々は自ずと非生産的な方法によって利益を追求をすることになる。環境汚染をしても金持ちになることができれば、汚染問題に真剣に取り組む人がいなくなり、偽物の製造や販売によって一夜で莫大な富を入手できれば、発明や革新に力を尽くす人がいなくなる。権力を利用して私利私欲を満たし、汚職・賄賂によって昇進できるとすれば、清廉潔白の権力者はほとんど残らないだろう。

このような非生産的な利益追求行為を適切に抑制することができなければ、自身の利益を追求する個人と集団の行為は、社会利益と他者の利益を損なう行為になる。このため、すべての社会にとって、生産的な行為を奨励し、非生産的な行為を抑制することを通じて、個人利益と社会利益の両立を実現することが重要であり、制度作りの上で避けられない課題である。このことは、分業を基礎とする市場経済にとって特に重要である。というのも、分業は個人と個人の間の依存関係を強くするため、個人間の行為を有効に調整し、個人利益の間および個人利益と社会利益の両立を有効に実現することができなければ、市場経済は正常に機能しない。合理的な市場経済は、個人の利益最大化の正当性を否定しないものの、個人が手段を選ばず蓄財することを決して認めていない。良好かつ合理的な市場経済の下では、体系化された制度設計により、適切な蓄財の方法と手段が慎重に選別され、生産的な手段が奨励され、非生産的な手段は制限または禁止される。そうでなければ、各々の個人による利益最大化を追求するエネルギーを社会全体の利益の増加に結びつけることもできない。

ポスト文化大革命期に流行っていた「一部の人を先に豊かにさせる」というスローガンは、明らかにこのような認識が欠けていた。個人の蓄財を単純に肯定し提唱しただけで、蓄財の方法について明確な基準を定めていない。これは、80年代の改革の考え方で市場経済を理解しようとした際、制度・規範の視点と合理的思考が欠けていたため、個人利益を単純化し過ぎたことを反映している。この誤った認識は、社会全体が豊かさの実現(発展)だけを重視し、その方法と手段を選ばないという深刻な結果をもたらした。

過去30年間の改革開放を振り返ると、富と個人利益を追求する中国の民衆のエネルギーが解放され、社会経済と国民生活は大きく改善された。しかし同時に、機会主義的な非生産的な利益追求行為が氾濫しているのも事実である。社会利益と他者の利益を明らかに損なう様々な行為はずっと抑制されることなく、豊かになる行為(発展)において「悪貨が良貨を駆逐する」という逆淘汰が深刻化した。遵法者は報われず、違法者だけが良い思いをしており、社会全体の道徳的価値観はほとんど混乱状態に近い。社会において善し悪しが顛倒するという現象はすでに恒常化しており、最低限のモラルすら守られていない。このような機会主義的な利益追求の競争から生じた「先に豊かになった者」と「後から豊かになった者」の間の対立、さらには「先に豊かになった者」と「豊かになれない者」の間の対立は、激化する社会における軋轢の温床となった。

このような問題はすでに広く認識され、反省も行われている。市場経済は法治経済、さらには道徳経済であるという言い方も生まれた。このことは、ポスト文化大革命期に意義があった理念がすでに時代に合わなくなったことを意味している。中国は、制度作りというより普遍的な次元で、個人の利益追及行為の基本原則を再定義する必要がある。ルールを欠いた自由放任は、現代市場経済の本質的な特徴ではなく、中国経済の長期的かつ持続可能な発展を支えることができない。中国社会は、個人の蓄財、一部の人が先に豊かになることを単純に奨励し続けるべきではなく、個人の蓄財を正当化すると同時に、誰が、どのような方法で豊かになるかについて、明確で公平なルールを定める必要がある。勤労により豊かになる者が尊敬され、違法者は侮蔑を受けるようにならなければ、道徳の再建、調和の取れた社会云々は単なる掛け声と化してしまう。

2008年2月19日掲載

出所

中国社会科学院経済研究所
※和訳の掲載にあたり著者の許可を頂いている。

関連記事

2008年2月19日掲載

この著者の記事