中国経済新論:日中関係

安倍訪中で改善する日中関係
― 「政治と経済の両輪の作動」に向けて ―

関志雄
経済産業研究所 コンサルティングフェロー

小泉政権の下では、「政冷経熱」に象徴されるように、日中両国は、経済関係が緊密になった反面、政治関係は1972年の国交正常化以来、もっとも困難な局面にあった。特に、昨年の春に中国の各地で起こった反日デモをきっかけに、日本の対中投資が伸び悩むなど、冷たい政治関係が熱い経済関係に水を差しはじめている。その一方で、中国の台頭をビジネスチャンスとして捉え、日中関係の改善を強く求める経済界の声が、政治関係の改善を促す力として働き始めている。対中強硬派として知られた安倍新首相が、就任早々、一転、中国訪問に踏み切り、積極的に対中関係の修復に乗り出したことは、個人の感情を抑えて、経済を中心とする国益を優先した結果であると理解すべきであろう。

熱い経済関係に水を差す冷たい政治関係

近年では、貿易と直接投資を通じて、日中間の経済交流が盛んになり、多くの日本企業にとって、中国はグローバル経営戦略を展開する際に重要な位置を占めるようになってきている。特にWTO加盟を経て、中国は生産基地としてだけでなく、市場としての魅力も増しており、この機会を捉えて、自動車や、金融・流通といったサービス分野への進出が相次いでいる。また、製造業に限っても、中国の技術力の向上を反映して、投資対象が従来の労働集約産業からR&Dセンターを含むハイテク産業に広がっている。さらに、投資形態も合弁から、独資やM&Aなど多様化している。

しかし、熱い経済関係とは裏腹に、歴史認識を巡って、両国間の溝は深まり、政治関係では、首脳間の相互訪問が小泉首相の2001年10月の訪中以来、5年間途絶えるなど、冷え込んできた。これらを背景に、昨年4月に中国の主要都市において大規模な反日デモが起こり、これを受けて、日中関係は、1972年の国交回復以来最悪の時期を迎えた。冷たい政治関係は、投資ムードを悪化させ、経済関係のいっそうの緊密化の妨げになってきている。

反日感情が高まる中で、日系企業にとって、自らの努力だけでは解消できない、対中投資に伴うカントリー・リスクが高まっている。国際協力銀行が実施したアンケート調査(2005年11月)によると、対中投資課題として、従来の「法制が未整備」、「知的財産権の保護が不十分」、「代金回収が困難」などに加え、「治安・社会情勢が不安定」を挙げる日本企業が急増した。これらのデメリットを上回るメリットがなければ、彼らは対中進出を控えることとなろう。

実際、日中関係がギクシャクしている中で、多くの企業は、すべての卵を同じ籠に置かないようにリスク分散のために、投資を中国以外の国や地域へシフトさせるというチャイナプラスワン(中国+1)戦略を模索し始めている。これを反映して、06年上半期の日本の対外直接投資が前年比17.7%増と堅調に推移する中で、中国向けは11.3%の伸びにとどまった。これに対して、ブラジル(6.9倍)、ロシア(64.0%増)、インド(2.7倍)といった中国以外のBRICsの国々への直接投資は急増している。

政治関係が冷えたままでは、日本企業の中国における経済活動に一層、悪影響を及ぼしかねない。中国はすでに貿易規模では世界第三位、GDP規模では世界第四位の経済大国であり、しかも年率10%に近い高成長を続けている。日本企業だけでなく、多くの欧米企業も中国を生産コストの安い「工場」として、また成長性の高い「市場」として活かそうとしている。このままでは、日本が「中国特急」に乗り遅れることになる。こうした懸念から、今年の四月に、経済同友会は、首相の靖国参拝を再考するなどを通じて、日中関係の改善を図るよう政府に求めた。

経済面に限らず、外交の面においても、日本は国連安保理常任理事国入り、朝鮮半島の安定の維持、FTAを中心とするアジアとの経済統合を目指しているが、いずれも中国の協力がなければ実現は難しい。アジアの地域統合において、日本は主導権を取るどころか、ますます孤立しつつある。こうした事態を回避するためにも、日中関係の改善が望まれる。

関係改善の第一歩を踏み切った安倍新首相の中国訪問

9月に日本において小泉政権に代わって安倍政権が誕生し、これが日中間の関係改善のきっかけになるのではないかという期待が両国において高まった。これに応える形で、安倍首相は、9月29日に行われた所信表明において、「中国や韓国は、大事な隣国です。経済を始め、幅広い分野で過去に例がないほど緊密な関係となっています。両国との信頼関係の強化は、アジア地域や国際社会全体にとって極めて大切であり、未来志向で、率直に話し合えるようお互いに努めていくことが重要であると考えます。」と述べ、関係改善の意欲を示した。さらに、就任してから最初の外遊先として中国を選び、10月8日に、途絶状態であった両国間のトップ会談を実現した。

これまで中国は首脳会談再開の条件として日本の首相による靖国神社の参拝中止を明言してきた。これに対して、安倍首相は、参拝するかしないかについてコメントしないという「曖昧戦術」をとりながらも、参拝問題は単に小泉前首相の言うように「心の問題」ではなく、「政治と外交の問題」であるという認識を示し、中国に配慮を見せている。また、歴史認識についても、首相に就任してから、戦争責任を回避するという従来のスタンスを改めて、村山談話を受け継ぐなど、中国に配慮するようになった。中国もこのスタンスを受け入れる形で、今回の会談が実現したのである。

首脳会談では、「戦略的互恵関係」の構築で一致するなど、予想以上の成果を上げた。また、互いの従来の立場を述べる原則論にとどまらずに、「中国の指導者の訪日で合意し、国際会議の場で頻繁に会談する」、「日本は平和国家として歩むと強調し、中国側は積極的に評価する」、「東シナ海ガス田の共同開発を堅持し、協議を加速する」、「エネルギー、環境保護、金融、情報通信技術、知的財産権保護などの分野における協力」、「歴史共同研究を年内に始める」など、広範囲にわたって、関係改善に向けた具体的な内容についても合意に達している。

これほど双方が歩み寄ることできるとは、日中関係が冷え切った小泉政権下ではもちろんのこと、就任する前の安倍首相の言動からも、考えられなかったことである。実際、中国のメディアでは、安倍氏は靖国参拝をはじめとする小泉路線の忠実な追随者であり、「小泉首相のクーロン人間」と揶揄されるほど、前評判は決してよくなかった。皮肉にも、「言動不一致」ともいうべき、就任前と就任後の安倍首相の対中スタンスの変化が、会談を成功に導いたのである。

歴史認識に限らず、対中関係のあるべき姿についても、安倍首相のスタンスが、大きく変わっているように見える。彼の選挙綱領とも言うべき、『美しい国へ』という著書の中で、「これからの日中関係を安定化させるためには、できるだけ早く両国の間に、政経分離の原則を作る」と提案している。具体的に、「政治問題を経済問題に飛び火させない、あるいは政治的な目的を達成するために経済を利用することはしない。おたがいに経済的利益を大切にし、尊重するのである。この原則を共有することができれば、両国の関係悪化の歯止めになるし、抑止になる。」と書かれている。10月5日の衆議院予算委員会の代表質問において民主党の菅直人・民主党代表代行が指摘しているように、これは、「経済だけが温かければ、政治は冷たくていい」とも読み取れる消極的姿勢であった。これに対して、首脳会談を受けた「日中共同プレス発表」では、「政治と経済という二つの車輪を力強く作動させ、日中関係をさらに高度な次元に高める」と明記されており、「政経分離」を超えて、政治関係を改善させる意欲も窺がえるようになった。

残された課題

日中関係が改善に向けた大きい一歩を踏み切ったとは言え、日中間に横たわる不信は深く、また靖国問題に象徴される歴史認識にとどまらず、東シナ海問題、台湾問題など、懸案が依然として山積している。

中でも、靖国神社参拝については、安倍首相が取っている曖昧戦術は、あくまでも時間稼ぎの手段に過ぎず、「賞味期限」が限られている。中国側は、安倍首相を招待する際、彼は在任中、靖国神社を参拝しないと確信しているようである。しかし、公式参拝はもちろんのこと、仮に、安倍首相が去年の官房長官在任中のときと同様に、密かに参拝する一方で、参拝したかどうかついてはコメントしないような行動に出れば、中国の理解は得られないだろう。

その上、安倍首相はA級戦犯の戦争責任や、極東国際軍事裁判の合法性を否定し、憲法改正を主張するなど、思想の面では、小泉前首相と比べて、「右寄り」という前評判もあって、新たな信頼関係を構築していくことは、決して容易ではない。中でも、安倍首相は総裁選に当たり、「21世紀の日本の国家像に相応しい新たな憲法の制定に向けて取り組む」という公約を掲げ、就任後の所信表明においても、この方針を繰り返している。憲法改正の最大のポイントは、言うまでもなく、第九条の扱いである。第九条は「和平憲法」の象徴であるだけに、日本が再び軍事大国になることを警戒する中国にとって、「自衛隊」が「自衛軍」になることは、仮に事実の追認にすぎないにしても、受け入れがたいことであろう。その際、日中の間では、新たな摩擦が生じる可能性が否定できない。

今後も、日中関係においては、経済関係の緊密化と政治関係における対立という二つの力が同時に働くだろう。確かに、マルクスが主張しているように、最終的には経済基礎が政治という上部構造を変化させることになっており、経済関係が深まれば、政治関係も改善されるだろう(拡大均衡シナリオ)。しかし、短期的には、政治関係の悪化が経済関係にも悪影響を与えかねない(縮小均衡シナリオ)。縮小均衡を回避し、拡大均衡の実現を目指した今回の首脳会談における双方の英断を評価したい。

2006年10月11日掲載

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