日米中の第一線の研究者による人民元問題に関する論文をまとめた、RIETI経済政策レビュー『人民元切り上げ論争~中・日・米の利害と主張~』が9月下旬に東洋経済新報社より出版される。出版社のご厚意によりはしがきの部分を掲載する。
はしがき
ドルが円をはじめとする主要なアジア通貨に対して急落しているなか、実質上のドルペッグ政策を採っている中国の人民元は割安となっている。現に、中国の対外不均衡の拡大と外貨準備の急増に示されるように、人民元は切り上げ圧力にさらされている。為替制度変更の可能性を含め、人民元の行方が内外の注目を集めている。中国政府は為替調整に対して慎重な姿勢をとっているが、日本と米国は中国がデフレを輸出していることを理由に、人民元の切り上げを求めている。本書では、当事者である中国に加え、日本と米国の専門家による、これらの問題に対するさまざまな角度からの分析や提案を掲載する。なお、本書の一部は、2003年9月16日に北京にて中国社会科学院と経済産業研究所が共同で主催した人民元問題に関する国際シンポジウムで発表された論文に基づいている。
本書の構成
本書は三部から構成されており、それぞれ中国、米国、日本からの視点に焦点を当てている。
第一部は、中国社会科学院世界経済政治研究所の研究成果を紹介する。人民元切り上げの必要性を否定する中国の公式見解とは一線を画し、中国を代表する国際金融の研究者たちは、できるだけ早い時期にドルペッグから離脱し、より柔軟な為替制度への移行を主張している。
まず、第1章の「人民元切り上げをめぐる海外の論調」では、中国社会科学院世界経済政治研究所の覃東海と何帆の両研究員が日本や米国など諸外国の政府・学界・金融界・国際機関による人民元切り上げに関する分析の観点をまとめている。これを通じて人民元切り上げに対するさまざまな議論の動機と根拠を分析することを試みる。
第2章の「高まる人民元切り上げ圧力と対応策」では、中国社会科学院世界経済政治研究所の何帆と張斌の両研究員が、人民元切り上げ圧力を、ドルの主要通貨に対する下落という外部からの圧力と、人民元の実質均衡為替レートの中長期的な上昇傾向という内部からの圧力に求める。ドルペッグを維持するためのコストは高まっており、人民元切り上げは自然の流れであろうと主張する。
第3章の「人民元切り上げ恐怖症をなくそう」においても、中国社会科学院世界経済政治研究所所長の余永定所長は、現在の人民元レートがファンダメンタルズと比べて割安になっており、また切り上げの中国経済への悪影響も軽微であるという認識に立って、中国のマスコミで流行する切り上げ反対論を批判している。
第4章の「ドルペッグ離脱への道」では、中国社会科学院世界経済政治研究所の何帆、鄧宝凌、張斌の三研究員が、ドルペッグは永続できるものではないという諸外国の経験を踏まえて、ドルペッグから離脱するベストタイミングを検討する。現在、中国にとって為替相場の柔軟性を高める上で不利となる要因として、(1)金融市場が未成熟で、リスクをヘッジする金融商品が少ない、(2)中央銀行は変動相場制の下で金融政策を実施した経験がない、(3)輸出依存度が高い、(4)国内金融機関の不良債権が多く金融システムが脆弱であることが挙げられるが、その一方で、(1)中央銀行の外貨準備は潤沢である、(2)金融政策は一貫して比較的安定しており、インフレ圧力が強くない、(3)財政状況が良好で、赤字が比較的少なく、通貨当局と人民元に対する人々の信頼が比較的高い、という有利な要因もそろっているとしている。
第二部では米国側の観点に焦点を当てる。政策論争に積極的に参加してきた三人の経済学者は、人民元切り上げを強く求める米国政府の公式見解に対して、異論を唱えている。
まず、第5章の「中国の為替政策の政治経済学」では、ブッシュ大統領の経済政策担当補佐官を務めていたローレンス・リンゼー氏は人民元切り上げの必要性を認めながらも、中国政府は変動相場制への転換に踏み切れないと判断する。なぜなら、その前提となる資本移動の自由化、マクロ経済政策運営能力の向上、政治家階層の重商主義政策からの脱却などの条件がまだ整っていないからである。現時点での固定レート政策は政治および経済発展における基本的弱点または未成熟さと見るべきで、変動為替レートの実現には経済発展や社会の洗練を待つしかないと主張している。
第6章の「人民元は過小評価されているか」では、ブルッキングス研究所のバリー・ボズワース上席研究員が、現在の人民元レートが購買力平価(PPP)という基準では過小評価されているが、貯蓄投資(S‐I)バランス、外貨準備の増加という基準からは、過小評価が認められないと分析する。中国の直面している通貨切り上げ圧力は、外国企業による中国への多額の直接投資に伴う資本の大量流入の結果であると分析する。中国の高い貯蓄率といまだ発展途上の金融市場を考えると、これは不必要かつ吸収しきれない資本流入である。中国は為替調整よりも、外国資本を国際市場に還流させつつ、多国籍企業が持つ技術、経営とマーケティングのノウハウを吸収することを必要としている。ここでは、人民元切り上げは投資を抑制し、中国経済にデフレ圧力をもたらすだけであるとの主張がなされている。
第7章の「中国は東アジアの安定要因かデフレ要因か」では、一貫して固定レートを支持してきたスタンフォード大学のロナルド・マッキノン教授とチュービンゲン大学のギュンター・ジュナブル助教授が、人民元切り上げに真正面から反対している。なぜなら、1994年以降、97~98年の金融危機を含め、中国は人民元の対ドルレートを安定させることによって、東アジア諸国の経済安定に寄与してきたからである。そのうえ、中国が日本のように米国の圧力に屈し、切り上げと変動的な為替レートを実施すれば、デフレが深刻化し、流動性の罠に陥りかねないと警告する。そもそも、対外不均衡は貯蓄と投資のバランスを反映するものであり、為替調整によって是正できるものではないという。
日本の視点に焦点を当てる第三部では、黒田東彦一橋大学教授・内閣官房参与(元財務官)と経済産業研究所の関志雄上席研究員(2004年3月31日現在)の論文を掲載する。論拠は異なるものの、両者とも人民元の緩やかな上昇は中国自身のためになるという点において一致している。
まず、第8章の「円高の経験と中国にとっての教訓」では、黒田氏はニクソン・ショック後のインフレとプラザ合意を受けたバブル膨張の原因を円高そのものではなく、円高に伴うデフレ効果を阻止するための財政・金融政策の緩和に求めている。現在の中国においても、人民元の切り上げよりも、その先延ばしの方がバブルの形成とその後の崩壊につながるという。ドルペッグ制から変動相場制に移行する際のオーバーシュートを防ぐために、中国は資本移動の規制を維持しながら、緩やかな上昇を容認すべきであると提案している。
最後に、第9章では、編者である関が「なぜ人民元の切り上げが必要なのか」という設問に対して、日本のためでなく中国自身のためであると答える。なぜなら、中国と日本の経済関係は競合的というより補完的であることを考えれば、人民元切り上げは、日本にとって、製品に対する需要の増大というプラスの面より、生産コストの上昇を通じた企業収益と産出の減少というマイナスの面の影響が大きいと見られるからである。一方、中国にとっても人民元レートを現在の低水準に維持し不均衡を放置すれば、外貨準備がいっそう増えることになり、それに伴う資源の浪費、経済の過熱、さらには貿易摩擦の激化という副作用が非常に大きいと主張している。
人民元問題の論点整理
人民元をめぐる論争は、(1)現在のレートが割安になっているかどうか、またどのくらい割安になっているか、(2)切り上げはどういうメリットとデメリットがあるか、また行われるべきかどうか(3)為替調整が行われるとすれば、レートの変更とともに、為替制度そのものを改めるべきかどうか、またどう改めるべきか、という問題を巡って展開されている。
(1)人民元は割安になっているか
人民元は「均衡水準」からどのくらい割安であるか、言い換えればどの程度の切り上げられるべきかについて意見が分かれている。しかし、そもそも一般論として、為替の均衡水準がどの要因によって決められるかに関しては、学界においてもコンセンサスはできていない。
円ドルレートのように、先進国間の均衡レートを考えるときに、購買力平価(PPP)は一種のベンチマークとなるが、物価水準の低い発展途上国にはそのまま当てはめることができない。これを考慮したうえで、ボズワース氏は中国と同じ発展段階の国々とを比べても、PPPの基準から人民元が40%ほど割安になっていると推計している。一方、中国社会科学院は、対外収支がバランスするように均衡レートが決められるという考え方に基づくモデルを使って、人民元レートが6~10%ほど割安になっていると推計している。
人民元の均衡レートを議論するときに、対ドルレートが常に焦点となっているが、ドルが円やユーロなど主要通貨に対して大きく振れている中で、ドルにペッグしている人民元の実効為替レートの大きな変動は避けられない。2002以降のドル安傾向は、人民元レートを均衡水準から乖離させる要因になっている。
(2)切り上げのメリットとデメリット
人民元の切り上げが行われるべきかどうかをめぐっても、研究者の間では意見が分かれている。
人民元の切り上げに反対する論拠は次のようにまとめられる。第一に、海外からの需要と輸出が減少し、短期的な経済成長目標の実現に影響しかねない。第二に、海外からの直接投資のコストを高め、新規の海外直接投資の取り入れを不利にさせる恐れがある。第三に、構造調整による短期的な失業問題をもたらす可能性がある。第四に、人民元相場に対する投機を誘発するかもしれない。第五に、為替レートの上昇によって輸出、ひいては投資が抑えられ、デフレがもたらされる可能性がある。
これに対して、人民元切り上げによるメリットも多く挙げられる。第一に、為替レートを実質均衡為替レートと同様な水準に調整しておくことは国内経済の資源配分における最も効率的な為替レート価格に到達したことを意味する。第二に、為替レートに対する積極的な調整は、通貨当局に金融政策の自由度を与え、マクロ経済の安定化には有利である。第三に、為替レートの切り上げは人民元の購買力を高め、国民の福利厚生の水準を上げるために有効である。第四に、為替レートの切り上げによって、中国の通貨当局は貿易黒字を狙っているのではなく、国際収支の均衡を政策目標に立てていることを市場に向かって宣言できる。このように、国際収支均衡という目標が明確になった為替レートの調整は市場からの支持を獲得するはずである。ファンダメンタルズに見合った為替レートの維持は通貨危機あるいは金融危機を回避するための最も根本的な対策である。第五に、為替レートに対する積極的な切り上げは貿易黒字を減らし、中国に対する貿易摩擦問題の改善にも役に立つ。
中国社会科学院の研究者たちや、黒田・関の両氏は中国自身にとって切り上げのデメリットよりも、そのメリットのほうが大きいと見ているのに対して、ボズワース氏とマッキノン氏は逆のスタンスを取っている。中でも、マッキノン氏らと黒田氏は、日本のプラザ合意以降のバブルと膨張と崩壊における為替政策への評価が真正面から対立しているだけに、中国がとるべき為替政策についても対照的な処方箋を提示している。
(3)中国にとって望ましい為替制度とは
人民元問題を議論するときに、為替の水準だけでなく、ドルペッグに代わる為替制度にも関心が集まっている。ドルペッグを擁護するマッキノン氏らの主張は少数派である。多くの経済学者はアジア通貨危機の経験を踏まえて、より柔軟な制度を支持している。
97~98年のアジア通貨危機をきっかけに、ドルペッグの限界が露呈されるようになった。まず、円ドルレートの乱高下がアジア各国に激しい景気変動をもたらしている。また、米国の景気循環との連動性が弱まる中で、(ドルペッグを維持するために)金融政策が米国に追随せざるをえないことは、アジア各国にとってマクロ経済の不安定要因になっている。さらに、ドルペッグ政策を採っている国では、何らかの理由で切り下げの期待が生じれば、通貨投機が起こりやすい。
しかし、ドルペッグの代わりに完全に自由な変動相場制を採用すべきであるという見解は皆無である。なぜなら、このような為替制度を採用している国では、為替の短期的乱高下と中長期にわたる均衡レートからの乖離が広く見られているからである。為替の乱高下は国境を越える取引に伴うリスクを高め、貿易と資金移動の障害要因になりかねない。一方、為替レートの均衡レートからの乖離はマクロ面では景気変動を増幅させ、またミクロ面では貿易財と非貿易財部門間における資源の有効配分を歪める。特に、中国のように、国内の金融市場と為替市場の整備が遅れている発展途上国では、先進国と比べ、為替の変動幅がより大きくなるにもかかわらず、為替リスクをヘッジする手段は限られている。
中国は、「市場経済に即した柔軟な為替制度」を中長期的な目標としながらも、貿易と資本取引の自由化や、銀行をはじめとする金融部門の健全化など、その前提条件がまだ整っていないことを理由に、完全に自由な変動相場制への早期移行には消極的である。完全な変動制の実現が短期的には無理である以上、それに向かう長い移行期において、当局の積極的な介入を前提とする管理変動制が採用されることになるであろう。管理の基準としては、バスケット(basket)、バンド(band)、クローリング(crawling)の三つの要素からなるBBC方式が有力となっていると多くの研究者が考えている。
なぜ意見が分かれるのか
このように、人民元問題をめぐっては、各国の政策当局の間のみならず、研究者の間でも、意見が分かれており、まさに百家争鳴という状態になっている。研究者の間におけるこのような意見の相違は各国の政府や利益団体の立場よりも、中国を巡る内外情勢への認識と経済学の学説に対する解釈の差異を反映している。
その中で、意外にも本書の第二部で掲載される米国の経済学者の見解が、中国当局と最も近い。特に、市場万能主義を標榜する「ワシントン・コンセンサス」に基づいたリンゼイ氏の議論は、人民元の変動相場制への移行の前提条件がまだ整っていないという点において、中国当局と一致している。また、マッキノン氏らが分析した日本における円高(期待)とデフレの進行の関係(いわゆる「円高症候群」)は切り上げに消極的な中国当局に理論的根拠を与えている。
一方、第一部の中国側と第三部の日本側の研究者の見解には、人民元切り上げと為替制度変更の必要性や、資本移動に関する規制を維持しながらBBC方式による管理変動制への移行、といった点において、多くの類似点が見られる。この処方箋は、為替調整が対外不均衡是正に貢献できる手段であり、資本移動に関する規制も有効であるという前提に立っている。
世界経済における中国のプレゼンスが高まる中で、人民元問題を巡る論争は、これからも続くだろう。まだコンセンサスには至っていないが、本書がその論点整理のために役に立てば幸いである。
2004年8月
編者
2004年9月22日掲載