中国経済新論:中国の経済改革

国有企業改革のカギとなる「自生能力」の向上 

林毅夫
北京大学中国経済研究センター所長

一 中国の改革は増量(フロー)的に大きな成果を挙げられたが、存量(ストック)改革は全く実行できないものもあれば、実行したとしても本来の目的とは完全にはなれたものが多い。その原因には、より本質的な問題が潜んでいる。

ストックの問題の解決を目指したソ連・東欧諸国の「ビッグバン療法」とは違い、中国の改革は最初からフローとストック両方の面で前進する方法を採用してきた。一方で、従来の体制による束縛から農村と非国有経済を解放させ、フローの面での改革を行うことである。もう一方で、漸進的な方法で存量(国有経済)改革を行い、増量改革によって存量改革を推進し、増量の発展を存量改革につなげる方法である。増量改革の部分は見事に成功し、過去22年間、中国は、ソ連・東欧のような経済崩壊を回避しただけではなく、年平均9.6%の国民経済の高度成長も実現し、経済史における一つの奇跡を記録した。しかし、存量改革においては、確固とした成果を出すことができなかっただけではなく、逆に、国有経済の業績はますます悪化して行く一方であり、もはや政府の財政と国民経済にとって、大きな重荷となっているのは事実である。存量改革に関して、全面的な私有化を除いて、22年にわたってあらゆる教科書に載せられた方法を全部採用してみたが、政府によって実施された改革は、全ては次のどちらかの結末に終わった。実行した結果が本来想定した目標とは大きくかけ離れたか、それとも完全に実行できずに、途中であきらめざるを得ないか、である。

改革の結果が、本来想定した目標とは大きくかけ離れた例はいくらでもある。例えば、1979年に改革が始まったばかりの頃、国有企業の工場長と支配人には、経営を自ら決定する権利がなく、従業員の待遇も全員一律であったため、労働意欲に欠けていた。そのため、「権利の譲渡」を中心とした改革が推進され、工場長と支配人に経営権、そして利潤の自己保留や請負制などを実行することによって、企業の利潤に対する分配権をそれぞれ拡大した。利潤の自己保留であれ、請負制であれ、いくつかの地方での実験は全て有効であったが、いったん全国規模で実行されると、無効であることが判明した。世界銀行と社会科学院が行った企業のミクロ的投入と産出に関する研究によると、生産性が上昇したにもかかわらず、企業の利益率がかえって低下したという。国家は国有企業の所有者として利益が保障されていないのである。

従って、一部の学者達は、その原因が国有企業の所有権があいまいで、所有者が明確にされていないことに由来するものであるから、所有権を明確にする現代企業制度改革を行うべきだと主張している。その中でも、株式制が最も望ましいという。特に上場を果たした会社には、取締役会も理事会もあり、株主達が自らの利益のために企業に対する監督も果たしているからである。しかし、1991年以来中国における株式市場の発展を振り返ってみると、最初に上場を果たした会社の株のほとんどは、紙くずとなってしまった。上海と深センの株式市場に関する私の研究によると、上場を果たした国有企業の五年後の各種の指標は、上場していない国有企業とは、ほとんど差がない。むしろ、上場した株はいつも投機の危険にさらされていることが判明した。なぜなら、株式市場が始まったばかりの頃、株主達はみんな少ない持ち金で投資をしている。従って、一部の学者達は、こういった株主達は、生まれつき投機的であり、企業に対する監督をおろそかにする傾向があり、結局、企業の上場は、企業の業績にほとんど影響を与えず、逆に株式市場でも問題ばかりもたらしているとの結論にたどり着いた。

また、こういった学者達は、国外の大半の株は機関投資家によって、長期的に保有されることから、中国政府に対しても、投資基金を導入するように助言した。国外の基金と同様に、長期間株を保有することによって、企業の経営に真剣に取り込むことがその狙いである。しかし、1998年にわが国に投資基金が導入されてから、株式市場における投機の現象が減少したどころか、株式市場におけるインサイダーによる価格操作の現象が前より一層ひどくなり、不祥事が相次いで発生している。

さらに、従来、政府と企業間の役割分担がはっきりしないことは、国有企業の経営不振の重要な原因の一つとされてきた。そのため、政府機能と企業の機能の分離が図られたが、結果的に、従来の政府部門を会社に、従来の課長、局長を経理、総支配人などに、読み方を変えただけである。それらの人員の給料の上昇は行政によってコントロールできなくなったが、基本的に行政独占及び政府の補助と保護を頼りにして生き残る国有企業の状況は、ほとんど何も変わっていない。

政策は設定されても実行できずに、途中であきらめざるを得ないケースも多く見られる。例えば、1993年末、金融、財政、外国為替、国有企業と社会保障の5つの改革を計画した時、四大国有銀行に対する改革は、最初に着手され、しかもその方法もかなり熟練されたものであった。当時の目標は、銀行の商業化と金利の自由化であり、非常にはっきりとしたものであった。しかし、現在、四大国有銀行の貸出は、いまだに政策志向的なものであり、金利も市場と連動しているわけではない。近年、民営経済に公平な待遇を与えようとする言葉はよく耳にするし、四大国有銀行のいずれも中小企業向けの貸出部門を設け、中小企業や民営企業の貸出に専用の資金を用意するようになった。それにもかかわらず、中小企業は基本的に銀行から貸出を受けていない。最新の例は、「国有株の減持」である。この案を計画したとき、国有持ち株を減らすことによって、「株主の一極集中」の局面を変えることを通じて、上場会社のコーポレート・カバナンスを改善するために必要な条件整備を行いながら、国有経済の戦略的な調整をし、競争産業からの国家の退出やそれによって得られた資金を社会保障基金の財源に当てることがその狙いであった。しかし、この政策が発表された途端に、株価が暴落し、休場するまでに至っていた。

存量改革が実行されてから22年も経過したが、政策が設定されても、本来想定した目標とは大きくかけ離れたり、実行できずに、途中であきらめたりして、いずれも思うほど成果を挙げることができなかった。このことからわれわれは、一つの結論にたどり着くことができる。これまでわれわれが推進してきた存量改革は、いまだに伝統的な社会主義計画経済体制における最も本質的な問題に触れることができなかった。従来の体制に対する改革を完成し、社会主義市場経済体制を設立させるには、こういった本質的な問題にどうしても取り組まなければならず、避けて回り道を探すことはできない。

二、国有企業の「自生能力」が伝統的な体制における最も本質的な問題である。

伝統的な社会主義計画経済体制に対する改革でまだ触れていない本質的な問題をめぐって、学界と社会ではかなりの論議がされてきた。最もよく論じられた対策は、私有化である。しかし、ロシア、そして東欧の状況から見る限り、私はそう思わない。例えば、ロシアにしろ、チェコにしろ、基本的にすべての企業は私有化を実行してきた。しかし、世界銀行の1996年「世界開発報告」での資料によると、ロシアでは、従来の国有企業に対する補助金が、減少したどころか、増える一方である。しかし、2000年のロシアのGDPは、改革前の1990年の61%に留まっている。従って、増量改革に関して、われわれが解決していない問題は、ロシアにおいても同様に解決されていない。しかも、改革の総合効果からいうと、ロシアの状況は、中国の経済の高度成長とは天と地の違いがある。ソ連・東欧の改革の中では、ポーランドの経済状況が最も優れているが、同じく1996年の「世界開発報告」によると、ポーランドの大型国有企業は、基本的に私有化が行われていない。つまり、ソ連・東欧の状況を見る限り、われわれは存量改革において、避けて通ることができない本質的な問題は、私有化の問題ではないように見える。では、その本質的な問題は、一体何なのか。

私は、伝統的な社会主義計画経済体制の改革で、どうしても避けて通れない本質的な問題とは、国有企業の「自生能力」の問題であり、国有企業の「自生能力」の問題を解決しない限り、私有制を含むあらゆるコーポレート・カバナンス構造に対する改革は無効であるように思う。

では、「自生能力」とは何か。私の定義では、「開放された競争的な市場の中で、正常に経営される企業が、市場から投資家に受け入れられる期待利益率を獲得できる能力のこと」である。開放された競争市場の中で、正常に経営された企業は、投資家に受け入れられる期待利益率を獲得する能力を必ず持たなければならない。このような企業だけが投資の対象となり、設立ができる。そしてこのような企業が設立された後の経営にも、投資家に受け入れられる期待利益率を上げなければならず、このような企業しか継続的に経営を続けることができない。仮に正常に経営されている企業は、投資家に受け入れられる期待利益率を獲得できなければ、このような企業は「自生能力」を持たないことになる。その設立や経営の継続は外部からの支持、主に政府の政策的な援助や保護を頼りにしなければならない。

開放された競争的な市場の中で、企業が持つ「自生能力」は、その企業が経済における比較優位に大きく関連している。企業は、その企業が作り出した商品とサービスが国外の同じ種類の商品とサービスとの競争に勝つには、それが置かれた経済における比較優位を持つ産業あるいは産業分野に参入するしか方法はない。このような企業だけは、政府の保護なしで自分の存続と発展を図ることができる。

普通の市場経済の中、「自生能力」を持たない企業に投資しようとする者もいなければ、その継続経営を望む人もいないはずである。従って、市場で生存できる企業はかならず「自生能力」を持たなければならない。言い換えれば、正常な経営を通じて、市場に受け入れられる期待利益率を獲得できるということである。発達した市場経済を背景に開発された現代経済理論は、企業が「自生能力」を持つことをあらゆる経済理論研究における当然の暗黙の前提としている。このような前提の下で、企業がどれほどの利潤が挙げられるのかは、その企業の経営の水準によって決められる。このように、現在の経済理論が最も関心を示しているのは、会社のコーポレート・カバナンスと経営の問題であり、企業の「自生能力」が省略されているのである。

だが、企業が「自生能力」を持っているかどうかを計画体制から市場経済体制への移行期での国有企業の問題を研究する上での前提条件としたことには、致命的な弱点がある。『中国の奇跡―発展戦略と経済改革』(邦訳『中国の経済発展』)において、私は伝統計画経済体制での各種の制度について、詳しく説明した。

すなわち、前ソ連の1929年の制度にせよ、1952年の中国の制度にせよ、いずれも資金が極端に不足している経済の中で、本来比較優位を全く持たない資本集約型重工業を優先的に発展させようとしたものである。開放された競争的な市場経済において、このような比較優位を持たない資本集約型重工業の企業は、「自生能力」を持たない。これは、国家がなぜ行政的手段を使い、このような企業に対する援助を行うのかという理由でもある。しかし、先進諸国に追いつき、追い越せという願望と戦略的な考慮から、政府は、ゆがんだ金利、為替レート、賃金、エネルギー・原材料の価格、生活必需品の諸価格を人為的に低く抑えることによって、重工業発展のコストを抑えようとした。しかし、金利、為替レート、製品の諸物価などが歪んでいたため、当然の結果として資金、外貨、原材料、そして各種商品の供給が需要に応じきれなくなる。ハンガリーの経済学者であるコルナイがいった「短欠経済」の現象が生まれたのである。供給が需要に応じきれなくなる資金、外貨、原材料などを重工業に優先的に投入させるために、政府は、全般的な経済計画をまず設定し、そして、市場メカニズムの代わりに行政手段を動員し、各種の生産要素と資金を計画通りに配置せざるを得なかった。同時に、国家が農業部門から吸い上げた資金を、発展させようとする項目に優先的に投資することを確保するために、企業は国有化を採用しなければならなかった。しかも、歪んだマクロ政策環境の中、国有企業の利潤と欠損は、企業の経営水準ではなく、その企業が直面している製品と価額が歪んだ度合いによって、決められるのである。市場競争の欠けた計画経済体制の下、企業にとって、本来あるべき利潤がどの程度なのかといった客観的な基準がない。しかも、企業の所有者としての国家と企業の経営者の間に、企業の経営に関して、情報が非対称的になっているため、仮に企業の経営人員に経営権を与えると、権力が悪用されモラル・ハザードが必ず発生する。これを避けるために、企業の経営に携わる人員に対する人、財、物、生産、販売などの自由権が奪われた。このように無効な企業経営モデルは、実は歪んだ価格体制と市場競争の欠けていた外部環境の中、企業の経営者達のモラル・ハザードを回避するために選択された「次善」(second best)の制度である。

伝統的な社会主義計画体制は、資金が極端に不足していた経済発展の中で、重工業企業の「自生能力」を持たないという難関を克服し、一つの完全な重工業の体系を作り上げるためのものである。この点から見ると、計画経済体制は、一応成功したといえる。貧困や発展に遅れた発展途上国として、中国は、60年代に原爆開発、70年代に人口衛星の打ち上げなどを実現してきた。しかし、これらの目標のために、われわれは、労働者と農民の労働意欲の喪失や産業構造の不均衡、そして効率の低下といった巨大な犠牲を強いられた。今までの伝統体制に対する多くの改革は、確かに批判された通り、対症療法にすぎず、問題の根本が解決されていない。つまり、従来の体制がいかに形成されてきたのか、という発想に踏み込むことがなく、結局、「自生能力」の問題にほとんど注意が払われていなかった。このように、度重なる改革を経ても、多くの大型国有企業は、依然わが国の持つ比較優位に一致せず、開放された競争的な市場において、正常な経営能力を持っても、依然市場に認められる期待利益率を獲得することができないという事実には変わりがない。

国有企業の「自生能力」の問題が解決されていないだけではなく、「権利の譲渡」の改革の中、国有企業に新たな社会的負担を与える問題も発生した。1979年以前、毎年国家的な投資が重工業に集中していたため、それによって作り出された就職の機会は限られていたが、国家は都市労働者に職場を与える責任を背負っていた。そのため、一つのポストに対して、三人の労働者が配置されたこともしばしばであった。同時に、給料が低い制度の中、労働者の給料が消費をカバーするのに精一杯であった。退職後の職員も働く職員と同様に、給料をもらえる仕組みとなっている。改革までには、国有企業のあらゆる収入を国家財政に収めなければならなかった。その代わりに、企業のあらゆる支出も国家税政に賄われていた。結局、余剰労働者、退職した職員がすべて政府の財政によって養われていたため、企業にとっては、余分の負担の増加にならなかった。しかし、1979年以降、利潤の留保が実行されると、余剰労働者、退職した職員の支出を国有企業自体が負担することとなり、新しく作られた企業と比べると、これらの支出が国有企業にとって、社会の安定を維持するために受け負った余計な負担になった。

『充分信息と国有企業改革』(邦訳『中国の国有企業改革』)の中で、私は、「自生能力」の問題によって形成された負担を戦略的負担、そして、戦略的負担と社会的負担の合計を政策的負担とそれぞれ呼んでいる。

もし国有企業の政策的負担の問題が解決されなければ、あらゆる国有改革に関する対策も無効に終わるはずである。私有化にしても、この問題を解決することができない。なぜなら、大型の企業の所有権と経営権は当然分離している。このような両権分離の状況で、インセンティブの問題と情報の非対称性が当然生じる。政策的負担があれば、必ず政策的な欠損が生じる。政策的な欠損の責任は、政府にあり、そのため、政府は政策的負担を負う企業に政策的な補助金や援助を与えなければならない。しかし、情報の非対称性の状況で、政府にとって、政策的欠損と経営的な欠損を見分けることができない。企業があらゆる欠損を政策的な欠損によるものと主張しがちだからである。政府は、政策的欠損と経営的な欠損を見分けることができない以上、あらゆる損失の責任を全部背負わなければならない。このようにして、企業にとって、ソフトな予算制約が形成された。企業が直面するソフトな予算制約の問題が改善できない限り、あらゆる企業に対して、権利を与えたり、所有権構造の改革を行ったりすることは、改革前の「次善」の制度から乖離している。所有者としての国家にとって、事態はよくなるどころか、悪化する一方である。政策的負担が存在し、そして企業の倒産がありえない限り、例え国有企業を私有化しても、国家は依然企業の欠損に対して、責任を負わなければならない。しかも、一旦私有化が実行されると、企業は国家に対して、ますます優遇と手当てを求める傾向が見られ、国家が支払う代価が高まる一方である。世界銀行のソ連・東欧地域での企業私有化以降の状況を分析した結果もこの結論を支持している。

四大国有銀行が商業化と金利自由化の改革が推進できなかった原因も、国有企業の政策的な負担によるものである。1983年、国有企業に対する政策的な補助金を、利子のない財政支援から利子の低い銀行貸出金に変える改革が行われた。しかし、国有企業には政策的負担が存在し、そして政府が、低い金利での貸出金で国有企業に対する補助を続ける限り、銀行の商業化、そして金利の市場化改革は、完全に実現することができない。

中国の上海、深センの株式市場の問題も、根本的に国有企業の「自生能力」に由来している。国有企業が上場する前に、その多くが再編成を行い、余分の人員と老後の年金問題などの社会的な負担を切り離した。しかし、資本集約型重工業の度合いがあまりにも高く、「自生能力」の問題が根本的に解決されていない。このような「自生能力」の欠けた企業は、開放された競争的な市場において、投資家達に受け入れられるような利益率を挙げることができないのは、元々存在していた問題である。株主総会を設立するなどの改革では、このような元々存在する問題を変えることができない。しかも、経営活動を通じて、市場に求められる利益率を挙げることができない。投資家達も株を長期間保有することによって、満足できるようなリターンを得ることができない。長期間にわたって株を保有しても、満足できるようなリターンを獲得できなければ、普通の株主は、短期間での株価の変動に対する投機を頼りにして、儲けを求めざるを得ない。機関投資家を導入後、国有企業が「自生能力」を持たない事実には何の変わりもない。従って、機関投資家も同様に、短期間での株価変動で儲けようとしている。違いがあるとしたら、機関投資家は普通の株主のように受身で株価の変動に投機の機会を伺うのではなく、より多くの資金を投入し、自ら株価を操作し、儲けようとすることである。その結果、監督が厳格に行われていないところでは、株式市場の問題が深刻さを増していた。

同様に、国有企業の存続が、銀行による金利の低い貸出金や市場の独占などの政策的な補助と優遇に依存するような状況の中、民営経済に対する資金融資や市場参入などの優遇政策は、結局成果を上げることができない。

汚職や腐敗も国有企業が抱える政策的負担によるものである。赤字を補填し、国有企業を保護するため、政府は価格、市場参入に対して、いろいろな干渉を行わなければならない。これらの干渉は、権利を持つ政府官僚達にレントシーキング(rent-seeking)する機会を与えてしまい、その結果、汚職や腐敗の現象はいくら禁止しても、絶えず発生している。

国有企業の存続が、政府の政策的優遇あるいは補助金によって賄われるか、あるいは、国有企業が政府に対して、絶えず政策的優遇あるいは補助金を求めることが可能であるならば、政府と企業との役割の完全な分離はあり得ない。分離できない責任は、政府だけではなく、企業にもある。なぜなら、政府と企業との役割がはっきりとされない状況の中、企業は政府に対して、絶えず援助と優遇を求めることが可能である。しかも、政府は企業に対して絶えず援助と優遇を与える情況の中、企業の経営と意志決定に介入せざるを得ないのである。

最後に、カリフォルニア大学バークレー校の銭穎一教授が最近書かれた文章は、最近中国国内のメディアで広く報道されている。銭教授によれば、市場経済には、良い市場経済と悪い市場経済という二つの種類がある。これを見分ける基準は、企業が「自生能力」を持つかどうかに集約される。もし、発展途上国の政府が、比較優位を持たない産業を優先的に発展させようとしたら、その産業における企業は「自生能力」を持たない。国家は、このような企業を保護、補助しようと、当然経済に対して、いろいろな干渉を行われなければならない。干渉の結果、腐敗、汚職、レントシーキング、姻戚関係といった現象が盛んになり、結果的に、銭穎一教授が言う悪い市場経済になってしまうのである。では、どのようにすれば良い市場経済ができるのだろうか。市場に存在している企業は、もしみんな「自生能力」を持つなら、政府による補助、手当ての必要性がなくなり、経済に対する必要のない干渉と影響もなくなる。このような市場経済は当然、良い市場経済となるはずである。

三、改革の根本的な解決策は政策的負担を削減し、企業の「自生能力」を高めることにある。

これまで説明した通り、国有企業に「自生能力」の問題と社会的負担が存在する限り、国家は国有企業に対して補助金や、手当てなどを与える責任を負わなければならない。しかも、現在、国有企業は、都市部のおよそ50%の労働者を雇用し、全国のおよそ60%の固定資産を持っているため、国家は「自生能力」をほとんど持たない国有企業の大量倒産を認めるわけにはいかない。もし国有企業の「自生能力」をまず引き上げ、国有企業が抱えている社会的負担を減らさなければ、仮に私有化を導入しても、わが国の存量改革における各種の問題は依然として残るはずである。

以上の問題は非常に困難に見えるが、問題の根源さえ認識できれば、その解決は決して難しくない。

社会的負担の問題は、結局余剰人員のレイオフと退職後の従業員に対する社会保障を企業から独立させることである。このような負担を国有企業から切り離し、国有企業が国家に対して補助金や手当てを要求する口実にこういった負担を使わせるわけにはいかない。現在、国有企業が余剰人員を養う資金や退職後の従業員に支払う資金は、両方とも最終的に国家の資金である。こういった負担を企業から解放し、国家に背負ってもらうことには、いくつかのメリットがある。まず、金額には何の代わりもないのに、企業が国家に補助や手当てを求める言い訳がなくなる。しかも国家によって運営されると、もっと節約できることもあり得る。

国有企業の「自生能力」の問題は、ほとんど以下のいくつかのケースに分類することができる。もし国有企業が生産している製品が、国防安全上には絶対不可欠なものであれば、その企業は国家財政によって賄われるべきである。もし国有企業が生産している製品が、国防安全上絶対不可欠なものでなければ、しかもこの国有企業が提供している産品が大きな国内市場シェアを占めるならば、市場と資金を交換する方式によって、資金の豊富な外国企業との合資、あるいは国外の資本市場への上場を果たすことができる。こうすることによって、資金コストが抑えられ、企業の「自生能力」の問題が解決されることになる。一方、製品の国内市場におけるシェアが少ない国有企業の「自生能力」を上昇させる方法は、自分のエンジニアあるいは設計の面における人的資本の優位性を活かし、中国の比較優位に一致し、しかも大きな国内市場を持つ製品の生産にシフトするしかない。

国有企業の社会的負担が切り離され、「自生能力」が上昇すると、政府はもはや国有企業に対する政策的優遇と政策的手当ての責任を負う必要がなくなる。銀行の商業化と金利自由化もはじめて実現できるようになる。企業は「自生能力」を持つなら、正常な経営さえすれば、市場に受け入れられる正常の利益率を上げることができる。株主と機関投資家は、企業の経営と管理に本当の関心を示すだけではなく、長期間にわたって、株を保有し、株式市場における投機と不正も解消できる。政策的負担のない状況では、企業経営の責任は企業自身にあり、企業内部のコーポレート・カバナンスの改革がはじめて成果を挙げる。最後に、もし政府が企業に対する優遇と手当てを背負う必要がなくなったら、政府は市場の運営に干渉する必要もなくなる。こうすることによって、より望ましい市場経済が生まれ、民営企業に対する優遇政策がはじめて実現できる。

存量改革ではどうしても避けて通ることのできない深層問題は、国有企業の「自生能力」問題である。しかしなぜ「自生能力」の問題が発生したかというと、その根本的な原因は、資金が極端に不足する状況の中で、国内の力によって、比較優位を持たない資本集約型の産業を優先的に発展させようとした政府の戦略に由来する。このような戦略思想が根本から変えられない限り、国有企業改革は徹底的に進むことができないし、「自生能力」の持たない国有あるいは非国有企業を新しく作り出す恐れもある。従って、最も深層の問題を改革することは、発展戦略の転換である。中国の比較優位に基づく経済戦略を採用することは、国有企業の改革を最終的に解決する道であり、わが国において、政府による不当な干渉もなければ、腐敗もレントシーキングもない清潔な政治と健全的な社会主義経済体制をもたらす根本的な方法なのである。

2002年1月29日掲載

出所

北京大学中国経済研究中心簡報系列。原文は中国語。和文の掲載に当たって、著者の許可を頂いている。

2002年1月29日掲載

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