認知行動療法は心理療法(精神療法)の1つである。アーロン・ベックという精神科医が1960年代に作った認知療法と、古くからあった行動療法が組み合わさる形で認知行動療法と呼ばれるようになった。認知行動療法は心理療法の中でも最も多くのエビデンスが構築されており、EBM(エビデンスに基づく医療)の模範生となっている。
数としてはまだわずかだが、認知行動療法に言及した経済学の研究が登場しているので紹介したい。
経済学の5大誌における認知行動療法の研究
網羅的に取り上げるのは大変なので、以下では経済学の5大誌に絞って認知行動療法を取り上げた研究を見ていく。
①American Economic ReviewとAmerican Economic Journal
リベリアで実施されたランダム化比較試験であるBlattman et al. (2017)では、犯罪経歴のある男性を対象として200ドルの現金を付与するとともに認知行動療法の取り組みを受けた場合に、少なくとも1年以上にわたって犯罪や暴力が減った。このランダム化比較試験のフォローアップであるBlattman et al. (2023)は、犯罪の減少傾向がその後も10年間にわたって維持されたことを報告している。
ガーナの貧困層を対象として行われた集団的認知行動療法のプログラムの効果を検証したBarker et al. (2022)は、研究参加者においてウェルビーイングの向上(メンタルヘルス、主観的な身体の健康、認知スキルなどの改善)が見られたことを報告している。この研究の興味深いこととして、メンタルヘルスに問題にある人々に対象を絞っていないにも関わらず効果が出ており、無理に参加者を絞り込む必要がないことを示唆している。
American Economic Journalに掲載予定の論文として、Murphy (2021)は、ケニアの農村で行われた飲酒対策としての認知行動療法と薬物療法を組み合わせた取り組みが、飲酒を減らしただけでなく毎年の収穫量を増やしたことを報告している。
②The Quarterly Journal of Economics
Heller et al. (2016)では、認知行動療法を一部利用した犯罪予防プログラムについてアメリカのシカゴで行われた3つのランダム化比較試験の結果を報告しており、認知行動療法のアプローチによる思考と行動の修正が犯罪予防に有望であると指摘している。また、この論文のOnline Appendixでは認知行動療法による犯罪予防の可能性についての詳細なサーベイが行われており、貴重な参考情報になっている。
Bhatt et al. (2023)は上記の研究をさらに進めている。この研究では、シカゴにおいて、犯罪に関与するリスクの高い人々を対象としたランダム化比較試験を行い、介入群においては18カ月にわたって仕事を提供するとともに認知行動療法のトレーニングを提供した。分析によれば、犯罪予防を示す主要なアウトカム指標について有意な効果は見られなかった。ただ、銃撃や殺人による逮捕については65%の減少が見られ、著者はこのプログラムが有望であると主張している。
Dube et al. (2024) は警察官を対象とした研究となっている。警察官による誤認逮捕や過度の力の行使といった不適切な行動が問題となっていることを踏まえている。ストレスにさらされている現場の警察官が、深く考えることなく結論に飛びつくなどの認知のゆがみ(後述するとおり認知のゆがみは認知行動療法のキーワード)を抱いていることがこのような不適切な行動につながっているという仮説に基づいて、警察官の認知のゆがみを減らすための訓練プログラムが作られた。その効果をシカゴの警察官を対象とするランダム化比較試験によって検証したところ、介入を受けた警察官がより広い可能性を考慮するようになっただけでなく、力の行使や裁量的な逮捕の減少につながった。
③The Review of Economic Studies
Cronin et al. (2024)は、認知行動療法を含めたトークセラピーについて、薬物療法よりも効果があるにもかかわらず若年層の利用が少ないことの原因を探求した。この研究は、自己負担額が減ってもトークセラピーの利用はほとんど影響を受けないと指摘し、その背景として、若年層が、トークセラピーにスティグマを感じること、効果について懐疑的であること、知らない人と個人的なことを話し合うことに抵抗感があることを挙げている。
④Journal of Political Economy
認知行動療法を使った取り組みに言及した研究はほとんどないが、Oreopoulos et al. (2017)において、Pathways to Educationという貧困層の高校生を対象とした包括的支援プログラムの効果を検証しており、そのプログラムの一部に認知行動療法が使われていることが報告されている。
⑤Econometrica
認知行動療法を使った取り組みへの言及は乏しいが、修復的司法介入の効果を検証する研究において、先行研究として認知行動療法を使ったものがあること(上述したHeller et al. (2016)など)が言及されている。
経済学において着目されている認知行動療法研究の2つの要素
経済学者が認知行動療法に着目した研究は認知行動療法の持つ2つの要素に着目している。1つめは認知行動療法の本来の目的であるメンタルヘルスやウェルビーイングの改善に着目したものである。
経済学者が着目する認知行動療法のもう1つの要素として、この治療法が認知のゆがみを取り除いて人々の行動の適正化を促すという面に着目している。ここで「認知」とは思考と同義である。認知行動療法の基礎をなす認知療法を開発したベックは、ラテン語の「認知」に思考という意味があることを踏まえて、この治療法の名称に「認知」という言葉を使った(Beck, 1989)。
認知行動療法の基本的な理論は、人々の思考がしばしば現実離れした合理性を欠くものとなり(認知のゆがみ)、それがうつや不安、怒りなどのネガティブな感情や不適切な行動につながることから、さまざまな取り組みを通じて認知のゆがみを是正することによって思考を現実に即した合理的なものへと修正すれば、感情と行動の改善につながるというものである(Burns, 1999)。
認知のゆがみはメンタルヘルス上の問題だけでなく、さまざまな社会問題の原因になっていることが指摘されている。例えば、犯罪防止や、警察官の認知のゆがみの是正に関する上記の研究がある。最近の論文では、認知のゆがみが政治的分断と関係していることが指摘されている(Edinger et al., 2025)。また、認知療法の創始者であるベックは、多くの戦争の原因とされる誤認(misperception)が認知のゆがみと近い概念であることを踏まえて、認知行動療法を応用することによる紛争の予防・解決の可能性を示唆している(Beck, 1999)。
日本の経済関係の認知行動療法の取り組み
経済学の研究と呼べるもので日本において認知行動療法を使って効果検証を行ったものはまだなさそうだ。
ただ、経済産業研究所(RIETI)が関与したオンラインによるセルフヘルプ型のランダム化比較試験を含めるといくつかある。これらは千葉大学とRIETIの共同研究として行われたもので、うつ症状等への効果を検証したもの(Noguchi et al., 2017)、不眠に対する効果を検証したもの(Sato et al., 2022)、頭痛への効果を検証したもの、職場ストレスへの効果を検証したものである。以上に加えて、勤労者が抱える不安への効果を検証したランダム化比較試験、女性の更年期症状に対する効果を検証したランダム化比較試験について既に介入が終了しており、いずれRIETIのDiscussion Paperとして掲載することになると思う。
RIETIの関わった研究ということもあって、これらの研究はメンタルヘルスにとどまらず、認知行動療法に基づく介入が経済に関係する指標に及ぼす影響も検証してきた。初期の研究ではソーシャルキャピタル(人々に対する信頼)や経済面における将来見通し(消費マインド)に効果を及ぼすかについての検証も行ってきたが、効果は観察されなかった(Sekizawa et al., 2021; 関沢等, 2016)。最近の研究では労働生産性に関連するプレゼンテーイズムを質問票で明らかにするWHO-HPQも質問項目に含めており、こちらの効果検証を行うことが可能になっている。
今後について
本稿のキーワードである認知のゆがみだが、近年は増加傾向にあるそうだ(Bollen et al., 2021)。これは懸念すべき話で、認知のゆがみの増加が心を病む人々の増加につながるだけでなく、さまざまな社会問題(政治的分断、犯罪、紛争など)の増加につながりかねない。
認知のゆがみへの数少ない対処法の1つである認知行動療法への期待は高まると思われ、経済学を含めた社会科学への浸透は進んでいくのではないだろうか。