1. はじめに
私は独立行政法人経済産業研究所(RIETI)でEBPM(エビデンスに基づく政策形成)関係の仕事をしているのだが、EBPMの定義が人によって異なり、EBPMの推進という名の下に何を進めようとしているのかが不明瞭になっているように感じる。本稿では、エビデンスに基づく医療(EBM)の進展、諸分野の研究者の貢献による因果推論の発展を中心としてEBPM登場の経緯に触れるとともに、その経緯から導かれる本来のEBPMから日本のEBPMが乖離して和風化していることを述べ、そのような乖離が生じた理由を考察する。
1. EBPM登場の経緯
医療においては、かつては、医師をはじめとする専門家の経験を偏重するところがあったが、ランダム化比較試験(RCT)のような厳密な手法を用いることによって、医療の効果(介入と結果の間の因果関係の有無や程度)を明らかにする証拠(エビデンス)を得て、医師や患者の意思決定に役立てようという動きが1980年代頃からあり、これがエビデンスに基づく医療(EBM)となった[1]。EBMを推進する組織として1992年にコクランが作られ、最も正確なエビデンスが得られるランダム化比較試験(RCT)を複数束ねることにより最強のエビデンスを構築するシステマティックレビューを提供することによって、EBMにおける重要な役割を担うこととなった。
因果関係としての効果についての証拠を意味するエビデンスを重視するという流れは、医療にとどまらず、教育、犯罪予防など範囲が広がっていき[2]、さらには政策一般にも及ぶこととなった。英国のブレア政権において「エビデンスに基づく政策」という発想が登場し、“What matters is what works.”という標語が唱えられるようになった[3]。本当に効果がある政策が重要だという認識が広まったのである。
ところが、これだけではEBPM、つまり政策をエビデンスに基づいて形成することにはつながらない。というのは、医療と政策の間には大きな違いがあるためである。医療の場合は因果関係の検証を最良の形で検証できる実験手法であるRCTを行うことが可能であり、EBMという概念が登場する以前から多くのRCTが行われてきた。このため、コクランのシステマティックレビューも大部分がRCTだけを束ねたものになっていてそれで十分に役割を果たしている。これに対して政策一般の場合にはRCTを実施するのは現実的でない場合がほとんどである。RCTへの依存がEBPMに不可欠であるとすればEBPMは絵に描いた餅になってすぐに消滅するはずであった。過去においても、RCTに依拠した因果関係重視の政策評価が米国で1960年代に進められたが、時間がかかるなどの理由で廃れている[4, 5]。
ただ、今度は1960年代の米国と同じようにはならなかった。EBMが登場する頃とほぼ同時期に、因果関係を明らかにするためにはどうしたらいいかという学術的探求が進展した。統計学者であるルービン、経済学者であるインベンス、情報科学者であるパールを始めとして、分野を超えて多くの研究者が因果推論と呼ばれる学術領域を進化させていった[6, 7]。
因果推論の具体的な取り組みとして、回帰不連続デザイン(RDD)、差の差の分析(DiD)、操作変数法、傾向スコアマッチング、合成コントロール法などさまざまな分析手法が開発され、統計ソフトの進歩とも相まって多くの研究者が容易に使えるようになった。この結果、RCTのような実験に頼らなくても、行政機関がすでに保有している業務情報など既存のデータを活用して政策効果に関する因果関係を検証できる場合が増えてきた。
このように、EBMに端を発した「エビデンスに基づく○○」という発想が政策一般にも広がり、諸分野の研究者の貢献による因果推論の発展がこれを後押しすることによって、政策の効果についての証拠(エビデンス)を政策決定に活用するというEBPMが現実性を帯びることとなった。本稿ではこのようなEBPMを本来のEBPMとしておく。
2. 日本に輸入されたEBPMと和風化
2016年頃にEBPMが日本に持ち込まれた。というよりは、EBPMという言葉が日本に持ち込まれた。GDPの統計の正確さを巡る政府内の議論に端を発して、EBPMという名の下で統計改革が進められることとなり、さらにはEBPMの「三本の矢」という名の下で、経済・財政再生計画の点検・評価、政策評価における取り組み、行政事業レビューにおける取り組みが進められた[4, 8, 9]。
ただ、ここでいうEBPMは本来のEBPMとは異なっており、和風EBPMとでも呼ぶべきものだった(小林庸平氏は「日本型EBPM」という言葉を用いている[10])。EBPMの明確な定義の作成は回避され、政策が望ましい結果に至るまでの経路を考えて矢印で結ぶロジックモデルがEBPMの中核であるかのような議論が展開された[8, 9]。本来のEBPMではロジックモデルはめったに登場しないので、ずれが生じた。
今は和風EBPMの定義と思われるものが内閣府のHPに掲載されており、「政策の企画をその場限りのエピソードに頼るのではなく、政策目的を明確化した上で合理的根拠(エビデンス)に基づくものとすること」となっている。ただ、政策目的を明らかにすることなく合理的根拠を示すこともなく、その場限りのエピソードだけを頼りにして立案した政策はもともと少ないように思われ、この表現をEBPMの定義とすることは支持しがたい。
本来のEBPMもまた日本に持ち込まれている。近年の社会科学(経済学、政治学、社会学など)では因果推論が多くの研究に用いられており、他の国々と比べて利用可能なデータが少ないという問題がしばしば指摘されているものの、日本でも因果推論に基づく研究はいくつも行われている。私の所属する経済産業研究所(RIETI)でも、2017年2月に「日本におけるエビデンスに基づく政策の推進(リーダーは山口一男氏)」という研究プロジェクトが立ち上げられた(今は名前を変えて大竹文雄氏がリーダーとなって継続している)、政策エコノミストという研究員が経済産業政策について因果推論に基づいて効果検証を行っている、川口大司氏がディレクターを務める政策評価(EBPM)プログラムにおいて因果推論に基づく研究論文がいくつも作成されているなど、本来のEBPMを日本で推進しようとする動きは何とか続いている。
3. なぜ本来のEBPMの導入が進まないのか
EBPMというきらびやかな横文字が使われる一方で、内実は和風EBPMが中心という日本の現状には残念な思いもあるのだが、本来のEBPMの導入が進まないことにはそれなりの理由があるのだろう。私なりに考えてみた。
第一に、本来のEBPMが政策評価や行政事業レビューを大きく変えることを強いる可能性が高いことがある。政策評価法の条文(第三条)を見ると、同法に基づく政策評価は政策とアウトカムの間の因果関係を検証することを求めているように読める(この条文に出てくる「効果」という言葉は因果関係を示すのが通常)。しかし、因果関係を検証できる場合は限られているので、因果関係を検証できない大部分の政策評価は一体何なのかという答えの分からない問いにたどりつく。また、現在の主流である目標管理型の政策評価は本来のEBPMとは相性が悪いという問題もある[4, 11, 12]。行政事業レビューについては、比較可能な対照群を設定することが必要だとする因果推論の要請を考慮していない目標(アウトカム)の設定が行われているため、現在のスキームを前提とすると因果推論に基づく検証にたどりつかない。以上の事情を踏まえると、和風EBPMの定義の範囲内でEBPMを取り込んだとしておくのが無難そうである。
第二に、本来のEBPM自体が有する限界がある。因果推論を適用できる場合は限定的だし、開始した政策の効果を検証可能になるまでには時間がかかる。また、施策の設計の仕方やデータ取得などで工夫が必要なので、手間がかかるし、専門家の関与も不可欠になる。このため、本来のEBPMの適用は、人々への影響が大きい規制や大規模な補助金事業など限定的なものにならざるを得ない。エビデンス構築に向けた手間や時間を踏まえると、日本への適用が適切かを見極めながらも、外国で得られたエビデンスに頼らざるを得ない。
第三に、本来のEBPM自体が有するパワーが強力すぎることがある。これは世界各国で作られている医療に関するエビデンスで顕著である。その中には、胸部エックス線検査には肺がんによる死亡を減らす効果がない[13]、一般的な健康診断は寿命を延ばしたり重要な疾患を減らしたりする効果はない[14]といった日本の行政の現場がすぐについていけないものが含まれている。おそらく内外で積み上げられるエビデンスが今後も多くの政策や事業に効果がないことを明らかにするだろう。これは国民全体にとっては有意義だが、行政官だけでなく多くの利害関係者にとっては怖い話だ。
4. おわりに
政策は実現するだけでは意味がなく、効果があって初めて意味がある。効果のある政策を実現するためには和風EBPMにとどまるだけでは不十分で、部分的であってもほそぼそとでも本来のEBPMを日本に導入することが必要になる。
特に、日本の場合には、人手不足やカーボンニュートラルといった課題に示されるように、利用可能なリソースの制約が日ごとに高まっている。政府が講じる諸政策も例外ではなく、本当に効果がある政策だけを行うという選択と集中が必要になる。このためには、外国のエビデンスも活用した本来のEBPMが役に立つはずである。