国際経済学を学生に教える立場として、戦後の自由貿易体制が揺らぎ、保護主義への転換が鮮明になりつつある現状には強い衝撃を受けている。国際経済学では一般に、一国の経済厚生を目的関数とし、その最大化を目指す議論が展開される。しかし、いわゆるトランプ関税は、こうした「国全体の経済厚生の最大化」を目的とするものではなく、保護される生産者や労働者、関税収入に重きを置いたものと考えられる。
トランプ関税の影響と、その目的を推しはかりつつ今後日本はどのように向き合ったらよいのだろうか。
トランプ関税の米国経済への影響
関税が国内に与える影響は、教科書的には消費者へのマイナス効果が生産者のプラス効果を上回り、経済全体にとって基本的にはマイナスだ。一つの例外として、米国の関税引き上げによる輸入減に応じて輸出国側が価格を引き下げれば輸入価格低下の利益(交易条件効果)が米国にもたらされるが、2018年の対中追加関税25%時の実証研究によると交易条件効果は確認されず、関税はほぼそのまま価格に転嫁され輸入業者や消費者の負担が関税収入を差し引いてもマイナスだった(Amiti et al., 2019; Fajgelbaum et al., 2020)。むしろ中国の報復関税で米国の輸出業者が価格を下げて輸出し、米国側に負の交易条件効果があったことも明らかになっている(Cavallo et al., 2021)。中国からの輸入品の多くが中間財など差別化された財で価格が下がりにくい反面、中国向け輸出は大豆など農産品で差別化が難しく価格を引き下げざる得ないものと思われる。これらを総合すると、トランプ関税は関税の効果のみを考慮すれば米国経済にインフレと共に負の影響を持つことが強く予見される。
割れる世論の動向
貿易自由化は理論的にも実証的にも、消費拡大、価格低下、消費できる財・サービスの種類の増加、そして企業の生産性の上昇=賃金の上昇という形の貿易の利益が生まれることが明らかにされている。多くの人々は、そうした利益を明示しなくともその恩恵を日常的に享受していると考えられ、世論調査でも保護主義に否定的だ。実際4月8日に公表されたピューリサーチセンターによる調査でも大幅引き上げ前の3月末の調査時ではあるが、中国に対する関税引き上げが米国にとって「良い」と答えた人は24%、「悪い」は52%だ。問題は、自由貿易の恩恵が国内で均等に分配されないことにある。同調査でも興味深いのは共和党支持者と民主党支持者で回答が対照的で前者は関税引き上げに「良い」44%で、「悪い」24%、一方後者は「良い」5%で、「悪い」80%である。特に共和党支持者に多いとされる大卒未満の労働者層がトランプ関税引き上げを是としているものと思われる。今後の関税転嫁によるインフレでトランプ支持層の態度に変化が現れるのかどうかが注目される。
関税引き上げの目的はトランプ支持層の保護
貿易自由化を進める合意形成には、損失を受ける人への補償や他のセクターへの労働移動を促す政策が重要だが、これがなかなか難しいのが実態なのかもしれない。米国でも貿易調整支援として輸入や企業の海外移転によって解雇された労働者向けに所得補償や再就職支援があるが、その効果については必ずしも一貫した結果が得られていないようだ(遠藤2023年)。この背景には転職や引っ越しには無視しえない移動コストがあるため、輸入ショックに対して影響を受ける地域の労働市場の調整(成長産業への転職など)にはかなりの時間を要することにある(Autor et al., 2016; Caliendo et al., 2015)。日本でも同様だ。貿易自由化への賛否を問うたアンケート調査では学歴や年収だけでなく、引っ越したくない意向も反対に誘うことが分かっている(Ito et al., 2019)。米国内のこうした人々の不満の受け皿がトランプ大統領の岩盤支持であることを踏まえると、関税引き上げは支持層である労働者の雇用の保護を主要な目的としていることは明らかで、GDPや物価などマクロ面の影響を取り上げても議論や交渉の材料にはあまりならないのかもしれない。
関税逃避型直接投資で解決できるか
関税引き上げによる負担から逃れるため現地生産に切り替えるタイプの直接投資をTariff-jumping FDI(関税逃避型直接投資)と呼ぶ。実際に1980年代の日米貿易摩擦時には自動車など日本企業の多くは摩擦回避として米国での現地生産に切り替えた。米国側には関税引き上げによって外国企業が米国内で生産するようになれば雇用が生まれるという打算があるものと思われる。他方で、関税で保護された米国生産者は関税負担から解放される外国企業との競争にさらされるという面もある。反ダンピング関税の事例ではあるがその後の関税逃避型直接投資が米国内の企業利益を減退させたという実証結果もある(Blonigen et al. 2004)。また、投資形態には新規投資による法人設置(グリーンフィールド投資)と企業買収によるM&A投資があるが、新規投資の方が買収より負の影響が大きいという。その意味では外国企業による買収の方が米国にとってよいのかもしれないが、その場合新たに雇用創出する力は弱いであろうし、USスチールの事例のように買収は国内から忌避感も強い(注1)。日本として、輸出から現地生産への切り替えを交渉材料としても、雇用創出と競争環境のバランス、さらには投資形態への評価を巡り、交渉は一筋縄ではいかない可能性もある。企業としても生産拠点の設置のみならず部品等の調達網の移転も必要となり、数年単位の準備時間と、結果として非効率な生産を強いられる可能性がある。
輸出減少は日本に何をもたらすのか
一般に教科書的には(単純な部分均衡分析を仮定すると)輸出減少は価格低下となり、日本の消費者としては消費が増やせてプラス、生産者は利益が減るのでマイナスとなり、後者の方が大きいため経済全体でマイナスだ。問題はやはり雇用に与える影響で、輸出減により国内生産が減ることに伴うマイナス効果が危惧される。たとえば中国でのボイコットによる影響が日本国内の労働市場に与える影響に関して分析した結果では、中国向け輸出企業が非正規労働者の削減という形で対応したことが実証されている(Tanaka et al. 2019)。米国との交渉を粘り強く進めつつ、国内生産の減少や雇用減の影響を最小化する機動的な対応がとれるように体制を整えておく必要がある。企業としては、モノからサービス、とりわけ関税などの貿易障壁がないデジタルサービスの輸出によって収益を得られるような事業転換を強化していくことも中長期的な対応策として考えられる。