ワクチンの知的財産権保護免除でグローバルなワクチンの供給増加につながるか

伊藤 萬里
リサーチアソシエイト

5月5-6日、米国は世界貿易機関(WTO)一般理事会で議論されている新型コロナウイルス感染症に係る医薬品等の知的財産権保護を一時的に免除する提案に、反対から一転して支持する方針を示した。途上国を中心に先進国によるワクチンの独占が公平な供給を妨げているという国際世論の高まりと、中露のワクチン外交への牽制が背景にあるとされているが肝心のワクチンの供給改善につながるだろうか。

知財権保護の免除で技術移転が進むか

ワクチンの特許免除に関しては一部自発的な動きも見られる。2020年10月2日に南アフリカとインドからTRIPS協定の免除が提案された直後、10月8日に米国の製薬会社モデルナはパンデミック中はワクチン特許権を行使しないことを表明している(注1)。しかし今のところモデルナ製ワクチンの複製を試みたり、ライセンス許諾された事例は確認できない。

高い有効性が示されているファイザー(独ビオンテックと共同開発)とモデルナによるワクチンは、関連する技術知識が必ずしもすべて特許化されているわけではなく、一部の技術知識はノウハウや企業秘密として秘匿化されているようだ。企業が自社の技術革新の利益をどの程度確保することができるかという概念を専有可能性という。特許は専有可能性の1つの手段に過ぎず、特許侵害することなく類似の方法によって同様の開発成果を得られる場合には、技術の秘匿化や複雑化が専有可能性として有効な場合がある。医薬品は製品分解によって有効成分を知る「逆組み立て」による模倣が容易で、一般的には特許によって模倣を排除することが重要とされている。

特許化されていない技術知識がどの程度なのか定かではないが、この背景には技術的な理由もありそうだ。ファイザーとモデルナのワクチンには、今回初めて実用化されたというメッセンジャーRNA(mRNA)に基づく先進的な技術が利用されている。詳細は専門外なので立ち入らないが、複雑な生産工程や特異な技術を必要とし、そうやすやすと模倣できない可能性が高い。

特許は技術知識を公開することになるため料理のレシピのように製法を知ることができ、技術知識の財産権を明確化することで、技術取引に係る取引コストを低下させる機能もある。仮に製造に必要な技術知識が秘匿化されていると、レシピのように紙に書ける内容にとどまらず長年蓄積した暗黙知を伝える必要があり、技術移転を難しくさせる可能性がある。

こうしたことを受けてか、2021年4月にWHOはmRNAに基づく技術の共有を促進するスキームとして「mRNA ワクチン技術移転ハブ」を設立しているが、技術知識の提供があったという報道は今のところない(注2)。

医薬品開発には「範囲の経済性」がありmRNA に基づく先進的な技術が今後他の大衆疾病分野にも応用できる可能性がある。WTOで議論されているTRIPS協定の免除の範囲は、特許にとどまらず、工業デザイン、著作権、そして秘匿情報(undisclosed information)の保護に及ぶが(注3)、仮にファイザーとモデルナのワクチンがTRIPS協定の免除対象となったとしても、特許化されていない秘匿情報の開示がどの程度なされ、途上国側に技術移転されるのか現時点では不透明だ。

ワクチンの公平な供給につながるか

仮に技術知識が公開されたとして他国でもワクチン生産が可能になったとしたとき、一般的に言えば、独占廃止は価格低下をもたらすので供給増によって消費者に利益をもたらす。過去の事例として2001年HIV/AIDSの治療薬の際に特許がWTO-TRIPS協定の適用除外となった際の経験が参考になる。国境なき医師団の推計によると、特許薬の価格が1年で10分の1未満に下がり世界的にアクセスが改善された(注4)。競争原理が働くという点ではワクチンへのアクセスが改善されることが期待される。

他方で、製薬業界が主張しているように必要なワクチン製造や管理する技術が備わっていなかったり、ワクチンの原料への需要急増によって世界的に生産が困難になる場合や、原料の輸出規制などが行われると、HIV/AIDS治療薬の経験のようにはいかないかもしれない(注5)。また、特許免除されたとしても、ワクチン製造に莫大な固定費用(生産工場、保管設備など)がかかる場合には「規模の経済性」が働くため、無制限に生産拠点を分散させることは非効率だ。生産能力がある特定の拠点国においてある程度集約的に生産し、輸出することが効率的と思われる。

日本への影響と難しい日本の立ち位置

ワクチンの知的財産権保護が免除されることは、ワクチン接種が進まない日本にとってもアクセス改善を期待したいところだが、そもそもTRIPS協定の一時免除はアクセスに窮する国を目的としたもので、すでに大部分の調達契約が済んでいる日本への影響は限定的だろう。むしろ免除の提案に対して反対の立場をとってきた日本が、米国の方針転換にどのように反応するのか対応が迫られる(注6)。

日本は今後国産ワクチンの開発・供給を準備していることもあり、開発インセンティブを担保することとの間で難しい判断となる。たとえ米国製のワクチンのみがTRIPS協定免除の対象となったとしても、日本を含む他国のワクチンメーカーはマイナスの影響を受けることが予想される。新型コロナウイルス感染症向けワクチンのメーカーは限られた数しかいないので、寡占市場で価格競争を想定すると、ライバル企業が価格を下げたら自社も下げざるを得なく、互いに価格が高止まりしている方が一般的には生産者にとって望ましいからだ。

もともと外部性が働くワクチン開発は過少供給に陥りやすいという問題がある(注7)。5月13日に政府がワクチンの国による買い上げ方針を示したように、将来のパンデミックに備えるためにも国産ワクチンの開発インセンティブを担保することは重要だ。その一方で、グローバルパンデミックを終息させなければ、あらゆる分野で国際化が進んでいる日本経済の正常化も見込めない。イノベーションに与える影響を最小化しつつ、自国を含むワクチンの公平なアクセスを促進する国際枠組み、COVAXファシリティ(COVID-19 Vaccine Global Access Facility)(注8)の強化に引き続き率先して取り組む姿勢が求められる(注9)。

脚注
  1. ^ モデルナホームページを参照(Statement by Moderna on Intellectual Property Matters during the COVID-19 Pandemic | Moderna, Inc. (modernatx.com))。
  2. ^ https://www.who.int/news-room/articles-detail/establishment-of-a-covid-19-mrna-vaccine-technology-transfer-hub-to-scale-up-global-manufacturing
  3. ^ 2020年10月にインドと南アから提案された文書(IP/C/W/669)による。https://docs.wto.org/dol2fe/Pages/SS/directdoc.aspx?filename=q:/IP/C/W669.pdf&Open=True
  4. ^ 抗レトロウイルス薬3剤の価格/年がおよそ1万ドルからジェネリック薬と競合する700ドルまで低下したという。https://msfaccess.org/untangling-web-antiretroviral-price-reductions-2nd-edition
  5. ^ 国際製薬団体連合会は5月5日に米国のTRIPS協定免除への支持決定に対して失望の声明を発表し、かえって混乱を招くとしている。https://www.ifpma.org/resource-centre/ifpma-statement-on-wto-trips-intellectual-property-waiver/
  6. ^ TRIPS協定免除の提案について日本は、2020年10月のWTO知的財産権全般に関する理事会において、医薬品等への迅速なアクセスの必要性は認識しつつも開発インセンティブを損なうものとして支持しないことを表明している。directdoc.aspx (wto.org)
  7. ^ コラム: RIETI - グローバル公共財は誰が供給する?:ワクチン開発のインセンティブとアクセスの両立は可能か参照
  8. ^ 高・中所得国が自国向け途上国向けワクチン供給のために拠出金を出し、それを元にWHO等が主導してワクチンを共同購入し国際的に公平なワクチン供給を進める枠組み。COVAXファシリティについては厚生労働省ホームページを参照(https://www.mhlw.go.jp/content/10501000/000672596.pdf)。
  9. ^ 2021年5月12日の報道では日本政府がCOVAXファシリティに追加拠出を検討している。

2021年5月19日掲載

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