Special Report

多国間協力で世界貿易体制の回復を

ARMSTRONG, Shiro
客員研究員

戦争において最初に犠牲になるのが真実だとすると、地政学の世界では国際貿易が最初の犠牲者かもしれない。

大国間の競争と地政学的対立の再興により、国際貿易と経済交流を、地政学的優位性追求のための手段に変貌させた。米中両国が戦略的競争に陥っている現在、地経学的なアメとムチは、自国の優位性を確立し、友好国を味方につけ、非協力的な国を罰する方法と見なされている。

また、効率的な国際分業のみならず、グローバル経済の成長潜在力を通じた貧困脱出の機会も同様である。このことを日本ほど深く理解している国は他にないだろう。世界の繁栄は、各国・地域が自らの比較優位に特化し、世界貿易に参加することで規模の経済の利益を享受し、築かれてきたのである。その結果、国際的に高い貿易シェアと市場の集中をもたらしたが、現在では、国際的な相互依存が武器化されると見なされ、リスクとされている。比較優位への特化と貿易からの撤退は、経済成長を減速させ、逆に繁栄を損なう可能性がある。

地政学的な目的で経済的手段を用いることは、世界をより貧しく、より安全でない場所にするだろう。経済的相互依存は、世界の多くの地域に繁栄と安全をもたらしてきた。特に東アジアと欧州連合(EU)諸国は、貿易と経済統合の平和的効果を享受してきた。経済協力による統合の深化は戦争のコストを高め、市場の力は世界中の国家や政治家の行動を抑制する。

東アジアにおける経済的相互依存が崩壊すれば、各国間の抑制を弱め、紛争を助長するリスクがある。北東アジアは、地域競争や未解決の歴史問題、政治体制の違いから生じる政治体制の差異にもかかわらず、高い貿易シェアと相互依存関係を維持してきた。

これまでのところ、米中関係を除けば、貿易の多様化と相互依存のリスク軽減の努力は、ほぼ失敗に終わっている。2023年、メキシコは中国を抜き、米国への最大の輸出国となり、米国の輸入に占める中国のシェアは2006年以来最低レベルに落ち込んだが、これは、中国からの輸入に対する米国の関税のおかげである。現在、中国製の部品は、ベトナム、メキシコ、タイなどに出荷され、そうした国で製造される製品の原材料として米国に輸送されており、米国への輸入は依然として増加している。また中国の世界貿易における取引は、発展途上国への低コスト製造の移転とともに、グローバル・バリュー・チェーンにおける付加価値の増加を続けている。貿易データによると、多くのサプライチェーンが長くなっているが、必ずしもより強靱ではないことを示している。

GDPに占める財貿易の割合が頭打ちになり、グローバル化が後退していると考えられがちだが、単純な財貿易以外の分野では、ますますグローバル化は進んでいる。例えば、デジタル経済と越境データフローは急成長を続けており、これは切望されていた生産性向上の新たな源泉となっている。しかし、この新たな成長源も、データのローカライズ、人工知能のガバナンス、プライバシー保護へのアプローチの違いにより、分断のリスクに直面している。

海外直接投資、サービス貿易、越境データフローは、財貿易と切り離すことはできない。経済的には、国家間やその構成におけるサプライチェーンがより複雑になっているのが現実である。サプライチェーンのグローバルガバナンスは、サプライチェーンの強靱化に焦点を当てた政策にもかかわらず、依然として欠如している。

今日における世界経済の相互依存の実態に対応する上でより大きな課題は、多くの政府が市場の集中と高い貿易シェアをリスクと見なしていることである。相互依存を武器化しようとする試みを鑑みて、貿易の多様化とリスク軽減の政策努力はおそらく加速するだろう。

中国はより強硬な姿勢をとっており、多くの国が中国の経済的・政治的台頭をめぐって感じる不確実性を増加させている。中国による経済的威圧の行使は、多くの国々との信頼関係を崩壊させ、貿易相手国としての中国の信頼を揺るがす結果となった。

米国は、国内問題と中国との覇権争いに終始し、世界貿易体制の「執行者」から「妨害者」へと変貌を遂げた。ドナルド・トランプ前大統領のアメリカ・ファーストの保護主義政策は、主に対中関税および外国産鉄鋼とアルミニウムに対する関税であったが、バイデン政権下では中国のハイエンド半導体産業に対する一方的制裁措置の域外適用へとエスカレートしている。

2019年後半以降、米国が世界貿易機関(WTO)の紛争解決機関である上級委員の再任を拒否したことにより、多国間貿易ルールは執行不能となった。紛争解決機関が機能不全に陥った直後、EUとカナダは、「多数国間暫定上訴仲裁アレンジメント(MPIA)」の創設を主導した。この多国間の枠組みは、機能不全に陥ったWTOを模倣し、署名国がWTOの紛争を相互に解決することを可能にする。注目すべきは、オーストラリア、ニュージーランド、シンガポール、中国が現在のMPIA参加国53カ国に含まれていることである。日本は2023年3月に参加したが、多くの主要経済国やWTOの大半の加盟国はまだ参加していない。

WTOルールへの訴えとMPIAによる支持の結果、オーストラリアは中国からの貿易制裁の解除に成功した。MPIAに参加し、その裁定への遵守は、既存のルールに基づく秩序への関与を示し、単なる象徴以上の意義がある。

WTO内の紛争解決システムの問題とそのルールが執行不可能である状況において、G7のようなグループは経済的威圧に対抗するための手段の開発を検討している。EUは、その加盟国の1つが中国の経済的威圧を受けた場合の対抗策として、経済的威圧に対抗する手段を導入している。しかし経済的威圧に対抗する手段は、経済的威圧に対する抑止力として機能するかもしれないが、同時に多国間ルールに基づく秩序を著しく弱体化させるだろう。一部の国が国際法を自ら執行することは、法の支配ではなく、暴徒の正義や自警団的な統治に似ている。

ルールに基づく経済秩序を弱体化させるのではなく、強化するアプローチは、WTOの紛争解決システムの改革を続けながらMPIAを拡大することである。次善の策は、地域協定や複数国間協定に加盟する意思のある国の間で紛争解決メカニズムを強化することかもしれない。

多国間貿易体制は、他にも2つの大きな課題に直面している。その解決策は、MPIAのような志を同じくする国々のグループを通じて有志国が協働することにある。

第一の課題は、WTOの時代遅れのルールをボトムアップ方式で改革し、多国間でのルール作りが必要、という点である。これは地域協定やWTO内の既存のイニシアチブを通じて試行錯誤がなされているが、制度の分断を避けるためには、一定の原則(透明性の高い基準を満たす新規加盟国への開放性)に従う必要がある。

第二の課題は、WTOの安全保障例外の抜け穴をふさぐことである。「関税および貿易に関する一般協定(GATT)」第21条は、国家安全保障上の正当な懸念のために各国が制限的措置を実施することを認めているが、無制限の権利を意図したものではなかった。これまでは、GATTおよび後のWTOの規則の整合性を守るため、この例外条項の明白な濫用を防ぐ暗黙の了解が存在していたが、残念ながらその規範はもはや頼りにできない。

米国が国家安全保障の名の下に課した鉄鋼・アルミニウム関税に対する2022年12月のWTOの否定的な裁定に対する応答として、キャサリン・タイ米通商代表は、WTOは「主権国家が下した国家安全保障上の決断を疑問視すべきではない」と宣言し、バイデン政権によるGATT第21条安全保障例外条項軽視が鮮明となった。

これは、多国間貿易ルールに重大な抜け穴が存在し、それをふさぐ必要があることを示している。各国が国家安全保障を名目に勝手な判断で貿易を制限できるようになり、紛争解決手続きの発動はMPIA加盟国間でのみ効果的となれば、WTO加盟国の一部の国の政策空間を不当に制限することになり、MPIAを浸食するリスクがある。

ここでもまた、正当な国家安全保障上の利益とは何か、どのような条件下でGATT第21条が発動されるべきか、その条件を明記することに意欲的な多国間グループにおいて進展が期待される。別の提案は、紛争解決手続きに代わり「特定の貿易上の懸念」手続きを発動することで、仲裁者への委任 (delegation-to-adjudicators)ではなく、「ピア・ツー・ピア」の関与を可能にすることである。

地政学的な不確実性と世界秩序の大きな転換期において、多国間体制は中小国の利益を守るだろう。大国は、同盟国であろうとなかろうと、他国を顧みず自国の利益のために気まぐれに行動することを幾度も示してきた。米中以外の国々は、多国間主義とルールに基づく秩序を積極的かつ戦略的に保護し、米中に対し、両国の繁栄と影響力は、機能的な多国間体制に永続的に組み込まれているということを思い出させ続ける必要がある。

本コラムの原文(英語:2023年12月20日掲載)を読む

2024年2月27日掲載