第36回──日本版HRS/ELSA/SHARE(JHRS)ワークショップ・フォロアップインタビュー

社会保障問題の包括的解決を目指して-「高齢者」の視点から

清水谷 諭
ファカルティフェロー

日本では他国に類を見ない急激なスピードで高齢化が進む中、持続可能な社会保障制度の構築のためにさまざまな改革が推進されています。しかし、今までの研究は社会保障政策を評価するための情報が不足しており、個票データが公表されないという欠点がありました。そこで、RIETIの研究プロジェクト「社会保障問題の包括的解決を目指して:高齢化の新しい経済学」では、高齢者の生活水準をいかに引き上げるかという観点から、社会保障制度の総合的な研究を行っています。8月4-5日には米国から専門家を招き、JHRS(日本版HRS/ELSA/SHARE)をテーマとしてワークショップを開催しました。RIETI編集部では、プロジェクトリーダーである清水谷諭ファカルティフェローに、JHRSの進捗状況および今後の課題と展望について伺いました。

RIETI編集部:
2005年より清水谷先生が統括しておられる日本版HRS (Health and Retirement Study)/ELSA (English Longitudinal Study of Ageing)/SHARE (Survey of Health, Ageing and Retirement in Europe (以下、JHRS)) の研究の背景と進捗状況についてお聞かせください。

清水谷:
2004年に、社会保障制度改革に非常に関心を持たれている吉冨所長から、高齢化の新しい経済学を考えてほしいとお話を伺ったのが始まりです。従来の社会保障制度の分析は、年金、医療、介護と縦割りになっていて、しかもその多くは、今後高齢者が増加する中で、若い世代はいくら負担しなければならないのかという、いかにして財源を確保し、給付と負担の整合性を取るかといったことが主題となっていました。しかし、私の見方は大きく異なります。高齢者は年金を受給するだけでなく、医療、介護などいろいろなサービスを受けながら自分の生活を向上させています。また、健康状態、就業状態、資産の保有状況、家族関係、友人や地域とのかかわりといった点も考えなければなりません。したがって、高齢化の経済学を考えるためには、政府の視点で分析するのではなく、高齢者の視点で分析しなければなりません。まず、発想の転換が必要なのです。

高齢者の実態はさまざまです。65歳で元気に働いている人、90歳で寝たきりの人、単身で居住している人、家族と同居している人など、いろいろな人たちの総合的なデータを集めて社会保障政策の検証をしなければなりません。このような研究は、世界各地で行われており、すでに世界標準の調査が確立されています。アメリカのHRSは1992年から、メキシコのMHASは2001年から、イギリスのELSAは 2002年から、大陸ヨーロッパのSHARE は11カ国で2004年から始まっており、その後SHAREにはポーランド、イスラエルも参加しました。また韓国ではKLoSAが既に始まり、中国、タイも着手しようとしています。ところが、高齢化が急速に進んでいる日本で、まだ研究が始まっていませんでした。そこでHRS/ELSA/SHAREを手本にして始めようということになり、2005年5月にファカルティフェローに就任しました。以来、2005年8月にはミシガン大学を訪問し、HRSやSHAREの研究者と意見交換をしたり、提言をいただいたりして、プロジェクトを進めています。昨年度はパイロット調査を2回行い、それを基にして今年度から本調査を開始しようという状況です。

RIETI編集部:
パイロット調査の質問票はSHAREをベースとして、日本の制度、システム、慣習、その他の社会的な特異性を考慮して修正・加筆されたそうですが、日本に適応した質問項目にするために最も難しかった点は何でしょうか。

清水谷:
昨年ミシガン大学を訪問したとき、HRSのリーダー(Principal Investigator)の1人であるRobert Willis氏に「我々は何から始めたらいいのでしょうか」と相談したところ、「アメリカに固有の質問が多いHRSより、大陸ヨーロッパ10カ国以上で調査が実施され、質問項目が各国共通となっているSHAREを手本にするのがいいでしょう」と薦められました。SHAREがヨーロッパで各国共通といっても、日本と比べるとかなり違いがあります。先日のワークショップで明らかになったことですが、適応させるのが最も難しい分野は健康・医療および介護です。経済に関して、所得、消費、資産の額などを尋ねる項目は、国が異なっても本質的に変わりません。ところが、健康・医療に関しては国によって大きな違いがあります。たとえば、世界的に通用する「鬱」の尺度で日本人を測定すると、過半数が鬱病とみなされてしまうので、世界水準をそのまま日本に適用するのは問題だという意見もあります。また、ワークショップでは、調査サンプルの単位(unit)は何かということも問題になりました。アメリカではカップルまたはシングルが単位となっていますが、日本では核家族化が進んだといわれる今日でも子供が親の面倒をみる場合が多く、サンプルの単位は複雑です。家族形態の違いは高齢者の生活にかなりの違いを与えているので、介護に関しても日本的な質問を付け加える必要があります。このようなところが大変難しい点だと思います。

RIETI編集部:
JHRSのパイロット調査の結果報告によると、回収率は約30%で、HRS(米国)やSHARE(ヨーロッパ)の回収率よりかなり低くなっています。米国では、回収率向上のために、調査に関する事前の広告、インタビュアを対象とした4-5日間の研修、電話による効率的なインタビュー、代理人へのインタビューなど、いろいろな努力がなされています。日本では回収率を改善するためにどのような策を講じるべきでしょうか。

清水谷:
当然これらはすべて実行するべきです。中でも、調査員/インタビュアの研修は特に重要です。パイロット調査では私をはじめプロジェクトメンバーが講師となり、半日の研修を行いましたが、十分ではないので、研修プログラムをさらに充実させ、期間も延長することを考えています。さらに、TTT (Train-the-Trainer)と呼ばれるプログラムを実施するためにミシガン大学から研修トレーナーを日本に派遣していただく予定もあります。アメリカでは成績の悪いインタビュアを解雇したり、成績のよい人にはボーナスを与えたり、調査員の質を向上させるために様々な努力がされています。ただ、アメリカと日本では背景が異なります。HRSの調査員はミシガン大学の職員である一方、日本は調査会社を通して実施しなければならないところに難しさがあります。さらに、事前の広告や特に地方公共団体からの協力を取り付けることも非常に重要です。

日本には個人情報保護法があるため回収率が低くなってしまい、これは仕方のないことだという議論がありますが、それは必ずしも真実ではないと私は思います。今年の4-5月に、市村英彦先生(ファカルティフェロー/東京大学大学院経済学研究科教授)、澤田康幸先生(東京大学経済学部助教授)と3人で、旧山古志村の住民の方々を対象として中越地震に関する調査を行いました。ポスターを作ったり、何度も現地を訪問したり、質問表が実態に合っているかどうか調整を重ねたりした結果、90%という高い回収率を達成することができました。ですから、工夫次第で、回収率を改善することは可能です。調査員の能力・スキルの向上はもちろんのこと、日本でできることは別途どんどんやっていきたいと思います。

RIETI編集部:
高齢化の問題は多岐にわたるため、学際的な研究が求められています。JHRSの現在のプロジェクトメンバーは、経済学者、公衆衛生・医療の専門家で編成されていますが、HRSのように社会学および心理学の専門家にもプロジェクトに加わっていただく予定はありますか。もし、そうでないとしたら、JHRSは多くの学問領域にわたる問題に対してどう取り組んでいくのでしょうか。

清水谷:
その予定は十分あります。今までも、社会学や心理学といった分野を専門としておられる方々の中で、我々のプロジェクトをよく理解し、かつ協力してくださる方を探してきました。けれども、日本人でも海外在住の方が多く、様々な問題があり、なかなか順調に進んでいないというのが実状です。たとえば社会学でしたら、RIETI 客員研究員の山口一男先生(シカゴ大学社会学部教授)に専門家の方をご紹介いただき、ご意見を伺ったこともあります。ただ一般的に言えば、専門分野(discipline)が異なると、考え方も大きく異なり、議論のかみ合わないこともあります。いろいろな問題が生じる中でも、プロジェクトをよく理解してくださる方を探し続け、コンタクトしています。ですからそのような方々に早くプロジェクトに加わっていただきたいと思っています。

RIETI編集部:
JHRSの調査結果はどのように活用されますか。また政策にはどのように反映されることを期待しておられますか。

清水谷:
今までに実施したパイロット調査はサンプル数がそれほど多くないのですが、今年度からサンプル数を拡大して(最終的なサンプル数は1万を目標にして)本調査を開始します。是非取り組みたいことは、高齢者の労働供給、健康状態、医療・介護需要、さらに所得、消費、資産などの経済的な側面がどういうふうに決まってきているかという原因の解明です。もう1つは、それに影響を与える社会保障政策の効果の定量的な検証です。たとえば、年金ひとつをとってもいろいろな問題があります。高齢者が年金を受給することにより所得がどれくらい上がっているかという点は簡単に見えますが、実は複雑です。たとえば、本当は働く意欲があるにもかかわらず、年金の給付を受けることができるのならば仕方なく働くことをやめようとする問題があります。一方、少子高齢化が進む中、やる気のある人の労働参加を積極的に促すという矛盾するような目標があります。重要なことは、高齢者の労働意欲を阻害しない政策を設計しなければならないという点です。年金の受給資格を得た高齢者が働くと給付を減らされてしまうのはおかしいのではないかという議論もありますが、肝心なのは、どれくらいそのようなことが起きているのかを知ることです。それによってもっと働きたい人には働く意欲を阻害しない政策を立案することが可能となります。

健康状態に関して、医療、介護の費用は凄まじい勢いで増えています。これらの価格は報酬制度により政府が決めています。報酬単価や自己負担額の変動が需要に与える影響を分析することは非常に重要です。経済学では価格が上昇すれば、需要は減少することになっていますが、たとえば自己負担率を1割から3割に上げたとき、実際に需要はどれくらい下がるのか、あるいは、あまり下がらないのかについて分析する必要があります。その結果により政策の設計は随分違ってきますし、そこで初めて、価格を上げたとき本当に困窮している人をどのくらいサポートしていくかという政府の役割が明らかになるのです。

昨年8月、National Institute of Aging (NIA)のRichard Suzmans氏にアメリカの社会保障政策はどのくらいHRSに基づいて形成されているのかを尋ねると、「全部」と明言されました。彼らはHRSによって社会保障政策の効果がどの程度であるかを踏まえて、次の政策を立案しているのです。それは大変重要なことです。日本ではこのようなことが極めて少なく、むしろ思いこみで政策を設計してきました。今後JHRSがRIETIの研究成果となり、さらに、医療・介護サービスのあり方、年金のあり方、雇用政策のあり方など政策の立案に直接役立つことができれば、我々の努力が日本だけでなく世界にも還元されるのだと思います。

取材・文/RIETIウェブ編集部 木村貴子 2006年8月15日

2006年8月15日掲載

この著者の記事