ノンテクニカルサマリー

人的資本投資の決定へのピア効果とそのジェンダー異質性

執筆者 WANG Liya(早稲田大学)/川太 悠史(早稲田大学)/高橋 孝平(早稲田大学)
研究プロジェクト 人事施策の生産性効果と経営の質
ダウンロード/関連リンク

このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

人的資本プログラム(第五期:2020〜2023年度)
「人事施策の生産性効果と経営の質」プロジェクト

近年、急速な社会変化が進む中、従業員が最新のスキルや知識を取得できるよう戦略的に人的資本投資を行うことが、企業が競争優位性を確立するために不可欠である。人的資本投資の手段の一つとして社員へのジョブアサインメントが挙げられる。特に海外勤務といった経験は、言語習得や海外人材に対する交渉力といった一般的な人的資本だけではなく、海外支社とのネットワーク形成などの企業特殊的な人的資本蓄積にも寄与する。先行研究においても、社員の幅広い経験がその後の昇進やキャリアの進展に影響を与えることが示されており、「ジョブローテーション」としてこれを戦略的に活用する日本企業も多い。一方、従業員のキャリア志向は多様化しており、従業員自身の希望に配慮して異動配置を決めようとする傾向も近年強まっている。しかし、ジョブアサインメントが実際にどのように運用されているのか、それが人的資本蓄積にどのような影響を与えているのかを明らかにする学術研究の蓄積は少ない。

本論文では、このジョブアサインメントに焦点を当てた。自発的な人的資本投資の意思決定要因を探るため、競争関係にある新卒同期入社社員(ピア、同僚)のキャリア経験が本人のキャリア希望に与える影響を分析した。これをピア効果と呼ぶ。具体的には、人材育成の点で当該企業が重視する海外勤務経験を取り上げ、ピアの海外勤務経験が社員の海外勤務希望に与える影響を評価した。

分析にあたっては日系総合商社(以下、J-Tradingと呼称)の2010年から2020年までの期間の人事データを使用した。J-Tradingでは毎年約50名から100名の新卒入社社員を雇用し、実際の部署に配置する前に入社社員全員が参加する集合研修を行う。他の社員と比べて同期社員同士は、年齢・学歴等の属性が似通っており、かつたとえ違う部署に配属となってもつながりが強く、ピア効果は大きく働くと考えられる。加えて、J-Tradingでは総合職採用の社員を対象に、年に1回上長とキャリアプランに関する面談を実施しており、ここで本人のキャリアプランと所属組織とのすり合わせを行っている。このデータを用いて2,3年以内の海外勤務希望の有無への影響を測る。

分析対象社員はこれまで海外勤務を経験していない非管理職の総合職社員である。その年までに海外勤務を経験した同期社員の増加が、本人の海外勤務希望をどの程度強めるかを回帰分析によって推定した。この効果の推定では、つぎのようなバイアスが予測される。例えば、企業戦略として、とある世代(ピアグループ)にとある勤続年数時で海外勤務を促進する施策を打ち出している場合、ピア効果以上に企業戦略の効果も反映され、効果が過大に推定される恐れがある。キャリア希望への因果効果を同定するため、従業員固定効果のほか、従業員と異なる部署にいる同期の上司の海外勤務経験を操作変数とした二段階最小二乗法を使用した。適切な操作変数の条件として、内生変数である同期の海外勤務経験と相関があり、社員の海外勤務希望には直接の影響を与えない「除外制約」を満たす必要がある。本推定では、上司に海外勤務経験があると部下にも海外勤務を促す奨励や情報共有を行うと仮定している。加えて、従業員本人と同期社員が同一の上司を共有せず、「同期社員の上司の海外勤務経験が、部下である同期社員には影響を及ぼすものの、直属の部下ではない従業員本人には直接的な影響を与えない」よう操作変数を作成した。また、男性社員女性社員での効果の異質性を見るために、(1)サンプルを男女に分けた分析、(2)ピアを男性ピアと女性ピアに分解した分析も行った。

結果、全体サンプルでは同期社員の海外勤務割合が社員の海外勤務希望に統計的に有意で正の効果を与えることが分かった(図1)。同期の海外勤務経験割合が10%ポイント増えると、従業員の海外勤務を希望する確率が9.9%ポイント程度増えるインパクトを示している。分析サンプルを男女で分けた分析では(図1)、男性社員のサブサンプルにおいて男性ピアからの効果が有意に確認された。一方で、女性社員のサブサンプルにおいては有意な結果が見られなかった。

このように男女の間でピア効果に異質性がみられた背景には、社員の競争意識があると解釈する。昇進に年功序列的な側面もあるJ-Tradingでは、同じ年に入社した社員がお互いをライバルとして意識しながら昇進のために競争していることは想像に難くない。それゆえ、男性社員の多くは昇進への影響を意識し、同じ男性の同期が海外赴任を通じて様々な人的資本を蓄積していると、差を縮めるため、自身も同様に人的資本投資したいと意識することが考えられる。一方で女性社員は、先行研究によると競争を忌避する点、男性比率が高い競争においては忌避がさらに大きくなる点などが指摘されている。男性比率の高いJ-Tradingにおいて女性社員は、男性社員を含む競争相手が経験を積んだとしても、競争回避性からこれに反応しなかったと推察される。

本研究では次のような含意が得られた。第一に、ピアグループが競争を通じて成長機会への意欲を高める装置として機能することを示唆している。本来企業は、継続的な社員教育によって社員のキャリア形成や人的資本投資に対する意思を伸ばすことができるだろう。しかし、すべての社員一人一人に合わせた継続的な教育を行うことはコストが大きい。これに対して、社員の自律的な人的資本投資を促すためにピア効果を活用することは、追加的なコストを必要とせず、大きなリターンが得られるだろう。第二に、女性社員にはピアグループを通じた人的資本投資促進が機能しておらず、ピア効果の恩恵を享受できていない。記述統計によると、女性の海外勤務希望割合は10%程度であり、男性の希望割合38%と比べて少ない。この差は女性の競争忌避だけではなく、出産・育児も含めた働き方の自由度の低さから生じている。女性の働き方の自由度の低さと競争忌避が合わさることで、海外勤務希望に男女差が生じ、人的資本蓄積や昇進、そして賃金における男女格差につながっている可能性がある。したがって、男性社員の間のみ見られたピア効果を女性社員の間に生じさせるためには、女性の競争忌避を軽減するのと同時に、そもそも女性の海外勤務希望者の数を増やすための支援を考えなければならない。例えば、出産・育児等様々な事情を含めた女性の海外勤務キャリアのロールモデルを構築し情報提供を行う、キャリアアップを目指す女性に対するメンター制度、経営層によるキャリアの男女格差是正の積極的な提唱が有効だろう。

図1:同期海外勤務経験の海外勤務希望へのピア効果
*各棒グラフの縦軸はいずれも、二段階最小二乗法の2nd stageの係数の点推定値を示している。本結果は年齢カテゴリー、婚姻ダミー、子供の数、同期の人数をコントロール変数として加えている。***, **, *はそれぞれ1%, 5%, 10%有意水準で、係数が統計的に有意であることを表す。5%水準で有意な係数は実線で、有意でない係数は破線で示した。