ノンテクニカルサマリー

引退後の高齢者の健康推移:公的年金制度改革を利用した実証研究

執筆者 陳 鳳明(東北大学)/若林 緑(リサーチアソシエイト)/湯田 道生(リサーチアソシエイト)
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

その他特別な研究成果(所属プロジェクトなし)

日本は、少子高齢化の進展によって社会保障関係費を中心に財政支出の増加に歯止めがかからず、財政状況の改善が見込めない状況が続いている。団塊の世代が後期高齢者となる2025年を間近に控え、高齢者への社会保障給付の在り方においては、高齢者の健康状態や生活の質および健康寿命の延伸と、それらに関連する医療費や介護費などの社会的コストとのバランスを科学的な観点から検証する必要性が大いに増している。その一つの観点として、引退がその後の健康状態に及ぼす影響を検証している研究蓄積が進んでいる。一般的に、高齢者の健康は加齢ともに悪化していくが、社会的または政策的に定められた年齢の閾値周辺において、健康状態が不連続に変化することは考えにくい。つまり、年齢による影響を制御した後に残る年齢の閾値周辺の高齢者の健康変化は、引退というイベントによってもたらされるものであると考えられるが、表1に示すように、そのメカニズムは多種多様かつ複雑で、様々な結果が報告されている。

表1 引退が健康に与えるメカニズム
表1 引退が健康に与えるメカニズム
注:筆者作成。

引退の意思決定は、その時点における健康状態だけではなく、引退者元来の健康資本のストック量などの観察できない異質性、そして高齢者の雇用環境(法定退職年齢の存在)や年金受給開始年齢などの政策変更などに影響されるため、先行研究でも様々な工夫をこなして引退がその後の健康に与える因果効果を推定している。しかしながら、先進諸国間でも多種多様である高齢者の就業率や公的年金制度のもとで因果推論に基づく手法によって得られてきた先行研究の推定値は、それぞれの操作変数や政策変数の変化による局所平均処置効果(補注1)であり、引退が健康に与える影響の一部を推定しているに過ぎない。上述のように多種多様な結果が得られていることは、引退が健康に与えるメカニズムが数多く存在していることを反映しているとも考えられるため、引退が健康に与える因果関係のメカニズムの全容を解明するためには、むしろ異なる国々の様々な状況変化を利用した局所平均処置効果を地道に積み上げていくことが必要不可欠である。そうした背景を踏まえて、本分析では、日本の公的年金制度の支給開始年齢の変更といった外生的な制度変更を利用して、引退がその後の健康推移に与える影響を推定している。特に本研究では、(1)日本の中高年労働者を取り巻く社会環境は欧米の先進諸国のそれと異なる特徴を有すること、(2)日本の年金制度は欧米諸国とは大きく異なり、ばらつきが小さい一定の非労働所得を持ったうえで、報酬比例年金(厚生年金)の受給開始年齢が外生的に変化することを考慮できること、(3)引退が高齢者の口腔機能に与える影響を我々が知る限りにおいて初めて推定していること、(4)現在の年金給付の約7割を占める報酬比例年金の支給開始年齢の変更に焦点を当てていることに学術的および政策的な特色がある。

本研究では、2007年から2013年に4回にわたり実施されている『くらしと健康の調査(Japanese Study of Aging and Retirement, JSTAR)』の個票パネルデータを使って、男性労働者の引退がその後の健康推移に与える影響を推定する。固定効果操作変数法による分析の結果、日本ではばらつきが小さい一定の非労働所得を持つ高齢者の報酬比例年金の受給開始年齢が上昇すると引退時期が有意に遅れ、さらに引退後に口腔機能とメンタルヘルスが有意に改善するが、生活習慣病を患う確率が有意に高くなることが分かった。加えて、口腔機能の改善については、引退後に歯科利用率が有意に高まることが、咀嚼機能の改善につながっているというメカニズムが有力である結果が得られた。また、労働からの解放がメンタルヘルスの改善に、健診機会の減少が生活習慣病の発症につながっていることを示唆する結果も得られた。このうち、引退後の歯科利用が口腔機能の改善に貢献している点について、先行研究で得られている結果も踏まえると、男性高齢者の口腔機能や歯科利用は、自己負担の下落による価格効果の影響よりも、時間の機会費用の変化に大きく反応的であることを示唆している。高齢者の口腔機能の改善と心身の良好な健康との間に強い相関関係があることを踏まえれば、60代における口腔機能の定期的なメンテナンスや改善は、それ以降の医療費・介護費の抑制に大きく貢献する重要な予防行動の一つであると考えられる。

脚注
  1. ^ 局所平均処置効果:ある処置(本分析では退職)を受けた時の結果と受けなかった時の結果の差の期待値を平均処置効果といい、これは処置の全体に対する平均的な影響を示す。本分析のように、報酬比例年金の受給開始年齢の変更という一つの(局所的な)政策変更を利用して操作変数法によって平均処置効果を推定することは、様々な変化のうちの一部の変化を使って処置効果を推定していることになるので、これを特に局所平均処置効果という。