ノンテクニカルサマリー

2000年代の産業再生政策

執筆者 渡邊 純子 (京都大学)/武田 晴人 (ファカルティフェロー)
研究プロジェクト 産業再生と金融の役割に関する政策史研究
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

特定研究(第五期:2020〜2023年度)
「産業再生と金融の役割に関する政策史研究」プロジェクト

日本は1988-89年にバブルの好景気に沸いたが、1990年のバブル崩壊後、平成不況と呼ばれる長い景気低迷に陥った。1997年秋から98年にかけては、北海道拓殖銀行、山一證券、日本長期信用銀行、日本債券信用銀行などの金融機関が相次いで経営破綻し、金融危機が高まった。1998-99年の国内総生産(GDP)の実質成長率は、1970年代の石油ショック以来のマイナス成長となり、日本経済は極めて厳しい状況に直面していた。

政府は、金融システムの安定化のために、1998年10月の国会で可決・成立した金融早期健全化法に基づき、金融機関に対し公的資金60兆円の資本投入を決定するなど、解決が遅れていた「不良債権」問題の対応を加速化することにした。銀行自身も、不良債権処理のため、保有する株や土地などの資産を売却し、人員削減などリストラ策を打ち出す一方、債権放棄や債権売却を進めようとしていた。

しかし、日本経済が悪化した要因としては、様々なものがあり、それらが複雑に絡み合っている。たとえば、不良債権問題は、バブル期の金融機関の融資がバブル崩壊後に焦げつき、不況の「原因」になった、というだけではない。その後の長引く不況のもとで融資先企業の経営が悪化し、返済不能となって不良債権化したというように、不況の「結果」でもある。

このように、「金融」と「産業・企業」とは、「コインの裏表」、あるいは、成長・前進に必要な「車の両輪」のように、一体的なものであるにもかかわらず、不良債権だけを元凶として性急に不良債権処理を進めると、逆に「貸し渋り」や「貸し剥がし」が起こり、産業・企業が潰れかねない。

このディスカッション・ペーパーでは、こうした危機感や問題意識を強く持っていた経済産業省の官僚や財界の動きに焦点を当て、「金融と産業の一体再生」というキャッチフレーズのもと、産業側に対しては、「産業再生政策」と呼ばれる一連の政策が形成されていくプロセスを歴史的に跡づけた。その概要は、図に示した通りである。

図 産業再生政策の形成過程
1999年8月 「産業活力の再生及び産業活動の革新に関する特別措置法」公布
〔以下、産活法と略記〕
※企業が事業再編を行う際に、法律上の規制を緩めたり、税制上の優遇措置を図ることによって、企業の事業再編を支援し加速化する。
2001年1月 省庁再編により経済産業省発足(旧通商産業省からの組織再編)
2003年4月 産活法改正・延長
※支援措置を拡充
※同時期に発足した㈱産業再生機構が、債務を抱えた企業(但し、再生の見込みがあり、優良な経営資源を保有する企業)の再生支援を行う。

2000年代半ばには不良債権処理も一段落し、産業再生政策は、より前向きの成長戦略に転じていくことになった。法律や制度を整備することによって、事業再生(企業再生)市場を日本に定着させることも、その一つである。ヒト・モノ・カネ・技術などの経営資源が事業単位で取引対象とされることによって、企業が「選択と集中」を図ったり、新たな組み合わせによるイノベーションを促進するなど、産業競争力の強化につながる。

産活法は、このような目的から、2007年、2009年、2010年にも改正・延長され、その後、2013年12月に成立する産業競争力強化法へと一部の内容が継承されていくことになる。