ノンテクニカルサマリー

温泉を療養に有効利用したヘルスツーリズム推進とエビデンスの蓄積・共有

執筆者 関口 陽一 (上席研究員)
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

その他特別な研究成果(所属プロジェクトなし)

日本では、温泉は、病気や怪我を治す療養と、心身の疲れをとり健康増進を図る保養を兼ねる湯治に古来より有効利用されてきた。その後、温泉地の観光地化が進み、現在、温泉地は主に保養の場となっているが、最近になり、人口高齢化と医療・介護費の増大が進む中、療養と保養に寄与するヘルスツーリズムに対する関心も高まっている。

ドイツ、フランスをはじめとする欧州諸国は、温泉療養をエビデンス(科学的根拠)に基づき医療行為に位置づけ、温泉療養に医療保険を適用する制度のもとで温泉を療養に有効利用している。日本においても、温泉利用型健康増進施設で温泉療養を行った際に費用の一部を所得税の医療費控除の対象とする制度はあるものの、制度が広く知られていないこと等もあり、医療費控除の申請者数は少ない。しかし、温泉利用型健康増進施設の認定を受けた後、豊富温泉(北海道豊富町)では湯治客が増加し、豊富温泉を利用した医療費控除の申請者数は全体の6割以上を占めている。豊富温泉を利用した医療費控除の申請者が多い理由としては、皮膚疾患への効能が知られていること、北海道北部に位置しているため訪問に多額を要する交通費が医療費控除の対象となることに加え、東京都や広島県など遠方からの湯治客の多くが、訪問に当たり医師からの情報を参考にしていることも重要である。このことは、日本においても温泉を療養に有効利用できる可能性と、エビデンスに基づき患者に豊富温泉を紹介する医師の影響力の大きさを示唆している。

そこで、本稿では、地域資源である温泉を療養に有効利用したヘルスツーリズム推進による地域経済活性化を見据え、温泉の有効利用を強化する仕組みとして、医師が患者に温泉療養を勧める拠り所となるエビデンスの蓄積・共有の方策を考察した。具体的には、日本、ドイツ、フランスにおけるエビデンス蓄積・共有の状況および方策を整理したうえで、豊富町から提供を受けた湯治客に関する集計データから、医師からの情報が豊富温泉滞在の決定要因として大きいと確認されたことを踏まえ、医師のみならず、湯治客、温泉利用型健康増進施設関係者を含む広く国民の間で、温泉療養の効果に関するエビデンスの蓄積・共有を図る仕組みを強化するための財源、集めた資金を効果的に研究に配分し、研究成果を発信する組織の枠組みを、フランスの事例を参考に検討した。

まず、日本、ドイツ、フランスにおけるエビデンス蓄積・共有の状況および方策を整理した。日本では、国立大学法人化の影響から温泉医学を研究する国立大学附属の研究施設・病院が全て廃止または機構改革されておりエビデンスの蓄積が困難なうえ、温泉療法が医療に該当しない行為とされているため大学医学部における温泉療法に関する講義はごく一部での実施にとどまりエビデンスの共有も難しい。ドイツでも、リハビリテーション医療への切り替え等により温泉医学の研究施設が急減し、エビデンスの蓄積は難しくなってきたものの、医療保険が適用されるクアオルト(保養地)認定に当たっては、これまで蓄積されてきたエビデンスが共有・活用されている。一方、フランスにおいては、フランス温泉研究協会が、温泉療養者から徴収する資金、温泉療養者が滞在する市町により構成される温泉市長町長協会からの資金を財源に、温泉療養効果に関する研究プロジェクトに補助金を提供してエビデンスの蓄積を進めるとともに、研究成果を国民や医師に発信してエビデンスの共有も図っている。これらの取り組みが功を奏し、フランスでは医療保険の適用を受けた温泉療養者が増加している。最近のエビデンスの蓄積に向けた取り組みの状況に違いはあるものの、ドイツおよびフランスでは、エビデンスに基づき温泉を療養に有効利用する仕組みが整備されている。

次に、温泉利用型健康増進施設の認定を受けた後、湯治客が増加している豊富温泉の動向を、温泉利用型健康増進施設に認定された前後で比較した。豊富温泉では、認定後、東京都、広島県をはじめとする北海道外からの湯治客の増加、湯治期間の長期化が確認された。また、湯治に来たきっかけとなった情報源を都道府県別に集計したところ、患者に豊富温泉での湯治を勧める医師のいる東京都、広島県では、医師を挙げる回答の割合が他の道府県と比べ高かった。以上のことから、日本においても温泉を療養に有効利用できる可能性があること、また、療養のために滞在する温泉地を決定する際の医師の影響力の大きさが示唆された。

近年、訪日外国人旅行者の増加等に伴い、国内の宿泊者数が増加してきた。温泉地の宿泊施設への宿泊者数は概ね横這いで推移しているものの、温泉を療養に有効利用したヘルスツーリズム推進を通じて長期滞在する湯治客が増えれば、季節や景気、国際情勢などの影響による宿泊者数の変動を平準化でき、宿泊施設の経営の安定や温泉地の地域経済活性化に寄与すると思われる。外国人旅行者には、日本の歴史、自然、文化を楽しみながらゆっくり過ごして心身ともに健康になる湯治文化を、温泉療養のエビデンスと併せて発信しつつ、滞在時に利用できる体験プログラムを充実させていく対応が考えられる。日本人湯治客受け入れに向けては、泊食分離に対応した宿泊プランをはじめ、それぞれの湯治客のニーズに寄り添ったサービスの一層の充実が望まれる。長期滞在する湯治客への対応は、新型コロナウイルスの感染拡大を機に注目されているワーケーションにも応用できるだろう。

もっとも、温泉を療養に有効利用したヘルスツーリズム推進の前提として、医師が患者に温泉療養を勧める拠り所となるエビデンスを医師に示し、医師の理解を得ることが欠かせない。医師がエビデンスを理解することで、温泉療養が患者の選択肢になり、温泉利用型健康増進施設などでの湯治につながる。そこで、まずは医師のみならず、湯治客、温泉利用型健康増進施設関係者を含む広く国民の間で、温泉療養の効果に関するエビデンスを蓄積・共有する仕組みの強化が望まれる。仕組みの強化に向けた財源としては、温泉浴場入湯客に課税される入湯税の税率引き上げも選択肢の1つになり得る。しかし、入湯税は市町村税であり、従来と違う使途のために全国一律で税率引き上げを求めることには困難が予想される。入湯税を活用する場合は、対象とする市町村や施設を絞ったうえで検討を始めるのが現実的だろう。また、集めた資金を効果的に研究に配分し、研究成果を発信する組織の役割も重要になる。既存の組織を活用するか、新たな組織を設立するか、いずれの対応も考えられるが、温泉療養者をはじめとする受益者からの資金を財源に、全国的な組織(フランス温泉研究協会)が研究プロジェクトに対する補助金の提供と情報発信を一元的に手掛けているフランスの事例は参考になると思われる。このような仕組みづくりを通じて、類似する温泉のある施設の宿泊客と温泉のないリゾート施設の宿泊客を比較して温泉の療養効果を識別するなど、医師や国民の理解を得やすいエビデンスの蓄積・共有を進め、地域資源である温泉を療養に有効利用したヘルスツーリズム推進による地域経済活性化の実現を期待したい。

図:温泉療養の効果に関するエビデンスを蓄積・共有する仕組みのイメージ図
図:温泉療養の効果に関するエビデンスを蓄積・共有する仕組みのイメージ図