ノンテクニカルサマリー

大学入試改革の起源:明治の旧制高校における能力主義VS地域格差

執筆者 田中 万理 (一橋大学)/成田 悠輔 (客員研究員)/森口 千晶 (一橋大学)
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

その他特別な研究成果(所属プロジェクトなし)

入試制度の設計は悩ましい。大学入試ひとつをとっても、アメリカのように各大学に選抜を任せる分権的な制度をとる国もあれば、フランスや中国のように政府が全大学の入試を管理する集権的な制度をとる国もある。入試制度が用いる評価の基準についても論争に事⽋かない。アメリカでは大学入試が不透明差別的だとする告発や裁判があとを立たないし、入試による能力(成績)主義の色が濃い日本の国立大学でも、入試問題の選定でドタバタが進行中だ。良い制度設計を行うには、まず

「どんな入試制度を採ると学生の未来にどんな影響が生じるのか?
誰が得をし誰が損をするのか?」

を知ることが重要そうだ。だが、この疑問に答えるのは難しい。入試制度の変更は稀で、あったとしても1回きりの変更が多く、入試制度の効果を測るに足る質と量のデータが⼿に入ることがほとんどないからだ。

この壁を乗り越え、高等教育における入試制度の影響を測ることが私たちの目的である。そのための格好の舞台として、世界史上はじめて起きた全国規模の入試集権化改革に注目する。この世界初の全国集権化が起きたのは、実は明治の旧制高等学校(現在の国立大学の教養課程)である。1902年に起きたこの改革以前には、各学校が同日に独自に入試・選抜を実施し、各学生はどこか⼀つの学校を受ける分権的な仕組みが取られていた。

これに対して、改革後の制度は中央集権的でさらに能力主義的だ。学生は好きな数の学校に対する選好順位を提出し、全国共通入試を受ける。そして、選好順位と入試成績に基づいて学生を学校に割り当てるアルゴリズムが⾛る。このアルゴリズムは、今日では即時受入(Immediate Acceptance)方式とかボストン方式とか呼ばれているアルゴリズムに近い。ただし、成績最上位者のみに出願権を与える制約を入れ、GaleとShapleyの受入保留(Deferred Acceptance)方式とか順次独裁(Serial Dictatorship)方式と呼ばれるアルゴリズムに近づけたものだ。これらの方式の定義は安⽥編著(2010)や坂井(2013)に詳しい。

この旧制高校入試改革は、今日では世界各地の学校選択・入試制度や労働市場・臓器移植市場などで用いられている割当アルゴリズムが大規模に用いられた歴史上はじめての事例である。政府は官報を通じてこのアルゴリズムの正確な記述を公表しさえしている(図1)。明治の文部省には情報科学の先駆者がいたようだ。

図1:1917年発行の官報における割当アルゴリズムの説明
図1:1917年発行の官報における割当アルゴリズムの説明

改革前後の旧制高校は、後の近代日本を築く父たちを多く生み出した。たとえば:

  • 川端康成・谷崎潤⼀郎などの文学者
  • 近衛文麿・佐藤栄作などの政治家
  • 豊⽥喜⼀郎(トヨタ創業者)などの起業家・経営者
  • 湯川秀樹・朝永振⼀郎などの科学者
  • 岡潔・⾓谷静雄などの数学者
  • 宇野弘蔵・大内兵衛などの経済学者

では、彼らをはじめとする若者の生涯に旧制高校入試改革はどのような影響を与えたのだろうか? 独自に収集・電子化した史料に基づく定量分析の結果、中央集権的能力主義は、その代償として高等教育と職業的成功における「出身地域による格差」を拡大することがわかった。

まず短期的には、能力主義的集権化は第⼀高等学校(現在の東京大学駒場キャンパス)に第⼀志望で挑む学生を増やした。そして、能力主義的集権アルゴリズムは第⼆志望以下の学校への出願を許すことで、地元から遠く離れた旧制高校に出願する学生を増やした。優等生は東京などの都市部に偏っているため、結果として(分権入試下では浪人することが多かった)東京出身の優等生が地方の旧制高校を占拠するようになった。全国の旧制高校における東京出身者の⽀配力が高まったわけだ(図2)。

この地域格差拡大は当時の関係者にも認識されていたようだ。実際、地方の中学校校長や高等学校の学生・卒業生は中央集権化への反対運動を起こし、文部大臣に陳情してさえいる。地方ロビイストと中央集権化を推し進めたい文部省との折衝の結果、入試制度が⼆つの制度の間を行ったり来たりすることになる。

  • -1901年:分権入試
  • 1902年-1907年:能力主義的集権入試
  • 1908年-1916年:分権入試
  • 1917年-1918年:能力主義的集権入試
  • 1919年-1925年:分権入試
  • 1926年-1927年:能力主義的集権入試
  • 1928年-:分権入試

この旧制高校入試改革とその挫折の顛末は、教育学者や歴史学者・社会学者の⼿によって詳細な史実・統計と歴史絵巻にまとめられている(天野(2007, 2017)、竹内(2011)、三谷(1997)、三家(1998, 1999)、吉野(2001a, 2001b))。関係者の苦労を考えるとめまいがするこの双方向の制度変更の嵐によって、⼆つの入試制度の比較が可能になった。

図2:能力主義的集権化の短期的影響
図2:能力主義的集権化の短期的影響
横軸:年(ピンクで色づけられた年には能力主義的集権入試が行われた)
縦軸:全国の旧制高校入学者に占める東京圏出身者の割合

さらに興味深いのは、この地域格差拡大が数十年単位で持続したことだ。この点を示すため、1902年の改革から40年近くが経った1939年に作成・出版された『人事興信録』を用いた。『人事興信録』は、高額納税者・エリート政治家・官僚・叙勲者といった人々が収録されたいわば偉人録である。このデータには、上に挙げた旧制高校の有名卒業生が多く含まれる。

『人事興信録』と入試改革を組み合わせた分析の結果、旧制高校受験時(17才当時)に能力主義的中央集権入試を経験した世代では、東京出身で『人事興信録』に偉人として収録されるエリートが増えたことがわかった(図3)。そして、同じく17歳の時点で能力主義的集権入試を経験した世代の偉人たちは、旧制高校受験から数十年後に東京に居を構えていることが多いことも示唆された。入試制度の設計はエリート生産の地域格差を数十年に渡って塗り替える力を持つようだ。

図3:能力主義的集権化の長期的影響
図3:能力主義的集権化の長期的影響
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横軸:生まれ年(ピンクで色づけられた年に生まれた世代は能力主義的集権入試を受けた)
縦軸:『人事興信録』に上位0.05%所得者として収録された人の数(都道府県平均)
左図では上位0.05%所得者の人数を東京圏とそれ以外の圏についてそれぞれ示し、右図では左図の⼆本の線の差を示した

教育機会・資源(「身の丈」)の地域格差が取り立たされて久しい。私たちは「身の丈」の格差を変えられない運命として捉えがちだ。だが、嘆くだけでなく、入試制度をうまく設計することで「身の丈」をどう伸ばせるかを考えよ、という明治の先人たちのささやきが聞こえるようだ。