ノンテクニカルサマリー

日本農政の底流に流れる“小農主義”の系譜

執筆者 山下 一仁 (上席研究員)
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

その他特別な研究成果(所属プロジェクトなし)

農業経営の規模を拡大して、農業をより効率化し、その競争力を向上させようとする(以下、構造改革論とする)と、農業界だけではなくマスコミからも「小農切り捨て」という批判が上がる。今では小農はいても貧農はいない。むしろ、兼業農家である小農のほうが専業農家よりも高い所得を得ている場合が多い。しかし、国民の間で日本農業は小農が支えているという認識には根強いものがあり、これが農業の改革を阻害してきた。

農地改革は大規模な土地所有であった地主制を解体して小さな規模の自作農を作ったとするのがほとんどの理解である。一般には地主制=大農ととらえられており(実際には大地主は少数で中小地主が多数存在した)、農地改革はこれを分割して零細農業構造を固定してしまったという評価が確立している。しかし、米作の物納小作料制の下では、多くの小規模な小作人(小農)に一定量の土地を耕作させ、土地生産性を挙げた方が地主としては小作料が増加することになる。実際にも多数の小農、微細農が農業に従事した。このため、明治年間において地主擁護派の横井時敬(東京大学農学部教授、東京農業大学初代学長)は小農主義を唱えることとなったのである。彼の“小農主義”は貧しかった小農を保護するというものではなく、それを圧迫していた地主階級のための主張だったのである。

戦後経済が復興する中で、戦前と同様“小農主義”が特定の農業勢力(農協)と結びついて展開されるようになった。地主制も農協制も高米価を政策目標に掲げた。これは小農制をより強固なものにした。それだけではなく、戦後においては小麦価格を低位に置く一方米価を上昇させたために(図)、外国産主体の麦の消費量が増加し、国産主体の米の消費量が大きく減少するという事態を招いた。このように、本稿においては、東畑精一によって「日本経済史上の1つの奇跡」と呼ばれた柳田國男や石橋湛山らの構造改革論の農政思想と横井の小農主義を対比しながら、日本農業界における“小農主義”の継承について分析を行い、上記の結果を得た。

図:米麦の政府売渡価格の推移
図:米麦の政府売渡価格の推移