ノンテクニカルサマリー

企業の無形資産保有と流動性保有

執筆者 細野 薫 (ファカルティフェロー)/宮川 大介 (一橋大学)/滝澤 美帆 (東洋大学)
研究プロジェクト 企業金融・企業行動ダイナミクス研究会
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

産業フロンティアプログラム (第四期:2016〜2019年度)
「企業金融・企業行動ダイナミクス研究会」プロジェクト

先進各国の企業部門において、近年、一見すると過剰とも思える流動性保有傾向が指摘されている。図1は、1980年以降の本邦家計部門と企業部門の対GDP貯蓄割合をプロットしたものであるが、家計部門が高齢化の進展などを反映する形で一貫した低下傾向を示している一方で、企業部門は90年代以降の時期において高い貯蓄割合を示している。

図1:GDPに占める貯蓄割合:家計(破線) vs. 企業(実線)
図1:GDPに占める貯蓄割合:家計(破線) vs. 企業(実線)

こうした現象を生み出す要因としては、将来時点において何らかの資金制約に直面することを予想した企業が、予備的な動機に基づき現金保有を高めるというメカニズムが指摘されてきた。しかし、企業が直面する外生的な資金制約を何らかの変数で捉えることは必ずしも容易ではない。また、観察出来ない企業レベルの異質性が企業の流動性保有に影響を与えている可能性もあり、資金制約が企業の流動性保有のドライバとしてどの様な役割を果たしているのかは十分に解明されていない。

本稿の目的は、こうした既存研究における議論に対して、企業の生産活動における無形資産(ソフトウェア、研究開発、広告宣伝への支出(投資)によって蓄積される資産)の役割の高まりが、企業の保有流動性の増大を生み出しているという仮説を検証することにある。図2は、2000年以降における日本企業の有形資産と無形資産の伸び率をプロットしたものである。同期間において、有形資産の投資が停滞している一方で、金融危機前後の伸び率低下はあるものの無形資産の蓄積が進んでいることが窺える。この背景には、たとえば、企業活動におけるソフトウェア利用の増大など、生産活動において無形資産の果たす役割が上昇していることなどが想像される。

図2:日本企業の有形資産(左パネル)・無形資産(右パネル)伸び率
図2:日本企業の有形資産(左パネル)・無形資産(右パネル)伸び率

無形資産が生産活動において重要な役割を示すとしても、同資産の蓄積に向けた投資活動は資金制約の一種である借入制約に直面する可能性がある。これは、無形資産は担保としての活用が難しいことによる。この点をもう少し具体的にスケッチしてみよう。いま、ある企業が無形資産投資(例:研究開発投資)を検討しているとする。企業に対する生産性ショックにpersistency(正の系列相関)がある場合、現時点で正の生産性ショックを受けた企業は、将来においても同様に正の生産性ショックを受けることを予想する。この際、無形資産投資に上記の借入制約があるならば、せっかく到来した投資機会を資金不足でみすみす逃すことの無いように、企業は事前に現金を保有することで投資に備えるであろう。これが、企業に予備的貯蓄動機が生じる理由である。なお、こうした傾向は、無形資産が通常の設備投資の対象である有形資産との間に補完性を有している場合においてより明確に観察される筈である。たとえば、近年の物流業の様に倉庫設備だけではなく当該有形資産を管理・運営するためのソフトウェアやシステムが必要である場合、そうした強い無形遺産投資の動機を反映する形で流動性保有動機が強くなるためである。

本稿では、こうした理論的な想定を踏まえて、2000年から2013年における延べ4万社の本邦企業レベルデータを用いたパネル推定を行い、企業の無形資産保有と流動資産保有との関係を実証的に分析したものである。推定結果から、第1に、企業の無形資産(対総資産)比率と流動資産(対有形資産)比率との間に正の相関があることが確認された。この結果は、無形資産が担保として利用不可能であるとの仮定から生じる借入制約を含む上記の理論モデルの含意と整合的である。第2に、無形資産比率と流動資産比率との間の正の相関が、無形資産と有形資産の間の技術的な補完性が高い産業に属する企業において、相対的に高いことが確認された。この結果は、企業の流動性保有の高まりが、企業の生産活動における無形資産の重要性の上昇という技術的な側面によって部分的に説明されることを示唆している。

本稿で得られた結果は、一見すると過剰にも見える企業の流動性資産保有について、少なくともその一部が、「企業活動における無形資産の役割が上昇することに起因する資金制約」を回避する合理的な反応の結果であることを示唆している。こうした傾向の強弱は、企業が属する業種の産業の技術特性によって勿論異なるものである。しかし、一般的な含意として、企業の手元流動性を何らかの政策手段を通じて強制的に減じる政策が、意図せざる副作用として、企業の無形資産投資を減少させる可能性がある点には十分な注意が必要である。更に、こうした無形資産投資の減少は、有形資産と無形資産との間の補完性が強い業種において、有形資産投資までも減少させる可能性がある。企業ガバナンスの観点から問題とされがちな企業の流動性保有傾向に対して何らかの政策をデザインする際には、企業の行動原理に対する十分な理解が必要であると考えられる。