執筆者 | Huong Le Thu HOANG (横浜国立大学)/佐藤 清隆 (横浜国立大学) |
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研究プロジェクト | 為替レートと国際通貨 |
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。
国際マクロプログラム (第三期:2011〜2015年度)
「為替レートと国際通貨」プロジェクト
日本経済は為替レートの大幅な変動の影響を強く受けてきた。近年では、2008年9月のリーマン・ショック後の大幅な円高と2012年末からのアベノミクスによる急激な円安進行が記憶に新しい。こうした為替レートの変動は日本の輸入物価への影響を通じて、国内の生産者物価、最終的には消費者物価にも影響を及ぼすはずである。特に最近の急激な円安は日本国内の物価にどのような影響を及ぼしているのだろうか。経済学ではこの現象を為替レートのパススルーの分析によって説明する。
図1は2012年から2014年までの円の対米ドル名目為替レート(円ドル・レート)、輸入物価指数、そして生産者物価指数の変化を示している。2012年から2013年の変化に着目すると、円ドル・レートが22.3%減価したのに対して、輸入物価も14.5%上昇しているが、生産者物価指数は1.3%しか上昇していない。先行研究は、輸入物価へのパススルー率が高いのに対して、国内生産者物価へのパススルー率が低いという「定型化された事実」を報告している。図1の結果は定型化された事実と整合的だが、上記のような単純な比較では、為替レートの変動がどのようなメカニズムで国内生産者物価に影響を及ぼすのかが明らかではない。国内物価は他の要因、たとえば金融政策の影響や景気循環の影響も当然受ける。為替レートの変化に対する国内物価の反応を正確に理解するためには、以下で述べるような国内の生産連鎖を踏まえたパススルーの分析手法を用いる必要がある。
輸入のパススルーに関する先行研究は、為替レートの変化が国内の生産者物価に及ぼす影響を単一方程式モデルもしくはVector Autoregressive (VAR) モデルを用いて推定している。しかし、これらの研究は国内の生産連鎖を通じて為替レートの変化の影響が波及していくメカニズムを捉えることができない。すなわち、国内に輸入された中間財は複数の工程間分業を経て、最終消費財として生産された後に国内外に販売・輸出されるか、あるいは最終的に新たな中間財として生産されて海外に輸出される。この国内での生産連鎖を通じたパススルーを実証的に分析した研究は、一部を除いてほとんど行われてこなかった。
本研究は、2000年、2005年、2011年の日本の産業連関表から得られた国内108部門間の投入係数を用いて、国内外の生産連鎖を通じた中間財の投入産出過程を考慮したパススルーの分析を行った。その結果、単一方程式に基づく国内生産者物価へのパススルー率の推定結果と比較して、生産連鎖を考慮したパススルー率の推定結果は有意に正の値をとり、パススルー率も高くなることを明らかにした。
図2は2000年、2005年、そして2011年の産業連関表を用いたパススルー率の分析結果である。第1に、パススルー率は上昇傾向にあり、2011年表を用いた推定結果が最もパススルー率が高くなる。第2に、一般機械(General machinery)、電気・電子機器(Electric & electronic equipment)、輸送用機器(Transport equipment)の2011年のパススルー率は約20%(0.20)となり、単一方程式の推定結果と比べて高い値となっている。第3に、石油石炭製品(Petroleum and coal product)や非鉄金属(Non-ferrous metal)など資源エネルギー関連産業ではパススルー率が非常に高い値をとっている。たとえば、原油の輸入は基本的に米ドル建てで取引される。原油輸入のシェアが高ければ、それだけ円ドル・レートの変動に伴うパススルー率も高くなると解釈できる。
図3では、為替レートが変化しないと仮定し、さらに石炭鉱業・石油・天然ガス(coal mining, crude petroleum and natural gas)の輸入価格が1%変化したと仮定して、国内生産者物価への影響を分析している。原油価格は2014年前半までは1バレル=100ドル前後を推移していたが、2014年後半から急落し、2016年3月時点で1バレル=30ドル台まで下落している。こうした原油価格の著しい下落は日本の主要機械産業の生産者物価にどのような影響を及ぼしているだろうか。図3の分析結果によれば、石炭鉱業・石油・天然ガスの輸入物価が1%変化(上昇)した場合に、主要機械産業の生産者物価がごくわずかしか変化(上昇)しないのに対して、石油精製品(Petroleum refinery products)や石炭製品(Coal products)の反応は非常に高く0.7%に近い水準である。また、ガス・熱供給(gas and heat supply)や電気(Electricity)などのサービス部門の反応も0.4%を超えている。
第2次安倍内閣がデフレ脱却に向けて大胆な金融緩和を行ったことによって、2012年末から円は大幅に減価した。この円安によって国内のインフレ率が上昇することが期待されてきたが、産業連関表を用いた分析結果に従えば、円安が国内生産者物価を引き上げる程度は産業によって大きく異なる。資源エネルギー関連製品の生産者物価は為替レートの変動に大きく左右され、価格の振幅も大きい。一方、機械産業の生産者物価の為替レートに対する反応はより小さくなる。生産者物価全体に占める機械産業の割合が3分の2を超えていることを考慮すると、円安による生産者物価の上昇は緩やかなものにとどまることになる。
日本経済にとってより重要な問題は最近の原油価格の急落であろう。原油価格に加えて、石炭や天然ガスの価格が下落した場合も、国内生産者物価が受ける影響は産業によって大きく異なることが本研究で明らかになった。エネルギー関連価格の低下は非常に大きいが、機械産業の生産者物価の低下幅はわずかであり、大きな影響を受けない。そもそも円安が続く状況下で石油などのエネルギー価格が低下することは、生産コストを抑えながら、円安の恩恵を受けて輸出を伸ばせる好機である。それにもかかわらず、円安によってデフレ脱却が遠のくと不安視される理由は、世界的な景気の低迷による輸出需要の減退が背景にあるからであろう。日本経済にとって円安と原油価格の下落は決して悪い状況ではない。大胆な金融政策は十分に効果的であり、輸出が伸びない理由は別のところにある。