ノンテクニカルサマリー

心理社会的ストレス対処のための筆記表現法の応用可能性の検討

執筆者 大森 美香 (お茶の水女子大学)
研究プロジェクト 人的資本という観点から見たメンタルヘルスについての研究
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

人的資本プログラム (第三期:2011~2015年度)
「人的資本という観点から見たメンタルヘルスについての研究」プロジェクト

1.本研究の背景

心理社会的ストレスは、学校教育から産業場面にいたるあらゆる場面のメンタルヘルスの課題として広く関心を集めている。心理的ストレスは、うつなど心理的問題にとどまらず、喫煙や飲酒など健康を害する行動の増加を通して、身体面の問題にも負の影響を与えている。メンタルヘルスの問題は、個人の福祉のみならず組織の生産性を損ねる問題であり、産業界や社会経済への負の影響が憂慮される。

こうした背景のもと、エビデンスに基づく費用対効果を備えたメンタルヘルス対策が広く望まれているが、わが国におけるメンタルヘルス対策の経済評価は緒についたばかりである。有効なメンタルヘルス対策推進のためには、カウンセリングサービスや啓発活動、予防プログラムの充実や評価に加え、自助的な方法を含めた新たな方法を検討する必要があるであろう。本研究はこのような観点から、大学生を対象とした筆記表現法の応用可能性を検討した。

2.カウンセリング・心理療法とは

従来、精神疾患や心理的問題などメンタルヘルス上の問題は、精神科医、産業医、および臨床心理士・カウンセラーなど心理的援助の専門家による個別面接を中心に展開してきた。カウンセリング・心理療法の主要な目的は、クライアントの心理的苦痛の軽減と問題解決にある。心理的苦痛軽減の営みは、人類の歴史において、宗教や民族的儀式などさまざまな形式で行われてきた。カウンセリングや心理療法が、宗教的儀礼的癒しと異なるのは、実証に裏付けられた理論を背景に、セラピストやカウンセラーとクライアントの間の専門的関係により、言語的手段を用いて心理的問題の解決や行動の変容を行うことにある。

具体的なカウンセリングや心理療法は、援助の必要性の訴えにはじまり、初回面接、アセスメント、治療目標の設定、実際の面接、終結にいたる。問題の性質や度合いにより、全体のプロセスが数週間で終了するものもあれば、数年を要するものもある。

このような援助方法は、クライアントが援助を求め、援助者と治療契約が成立することを前提する。換言すれば、クライアントが問題の深刻さを自覚し援助を求めなければ、心理的援助のプロセスが開始しない。サービスの利用可能性に対し、問題をかかえる人々がこれらを利用せずにいる状況は、しばしばサービスギャップと称される。問題をもつ人々が早期に専門家の援助を受け問題解決が早期になされれば、社会経済的影響も小さいはずである。より有効なメンタルヘルス対策のためには、サービスギャップを解消し心理的介入の有効性を補償する方法の開発が望まれる。具体的には、集団に教授できる、独学で習得可能、自身で実施できる、予防的に活用できる自助的方法が挙げられるであろう。

3.自助的方法としての筆記表現法とその効果検証の試み

上述の自助的方法として、本研究では Pennebakerら (1986)により提唱された筆記表現法(Expressive Writing)をとりあげ、その有用性の予備的検証を行った。筆記表現法とは、各個人がストレスフルな出来事についての考えや感情を毎日20~30分程度、数回にわたり筆記する方法であり、心身の不健康な状態の改善(例:身体の不調や情動愁訴の減少、リウマチ性関節炎患者の症状の緩和、抑うつ症状の減少、対人関係の向上、職員欠勤率の減少など)が報告されている。筆記表現法は方法が簡便でありながら、ストレス事態への対処や社会的機能の向上など臨床・健康心理的な課題を解決する方法として、広範な応用可能性が期待されている。

本研究は、大学新入生を対象に筆記表現法を実施し、入学直後の心理的問題の改善に対する効果検証の予備的研究として行われた。大学生新入生の適応のための筆記表現法の応用可能性の検討は、上述のサービスギャップの解消、予防的介入開発のための手がかりとなる点で意義がある。同時に、成人期の心理社会的ストレス由来の心身の不調の予防が、社会経済全体のコスト低減につながるとの視点からも意義があるものと考えられる。成人萌芽期にある大学生早期にストレス対処方法を習得しておくことで、成人期の心身の不調の予防につながり、このことは個人のウェルビーイングの維持と同時に、究極には社会経済全体のコスト削減および生産性に資するものと考えられるからである。

筆記表現法の効果の検証として、本研究では、進学というライフイベントを経たばかりの大学新入生24名(平均年齢18.5歳、SD=0.66)を対象に筆記表現法を実施した。筆記開示群、統制開示群、統制群を設け、筆記開示群、統制開示群に3日間の筆記表現法を実施してもらった。筆記開示による抑うつ・不安・怒りの軽減効果は、今回の調査では認められなかった。筆記前後の気分変化は、3日目でポジティブな変化量の増大がみられたが、統計的有意性はみられなかった。また、筆記表現法実施前後の抑うつ、不安、怒りの変化に統計的に有意な差はみられなかった。

4.まとめ

本研究は、大学新入生の心理的ストレスの低減を目指した筆記開示の効果検証をめざした実験を行った。筆記開示による抑うつ・不安・怒りの軽減効果は、今回の調査では認められなかった。また、筆記開示を3日間続けることによるポジティブ気分の向上はみられたが、その変化は統計的に有意ではなかった。

結果の解釈に際し、手続き上の限界に注意しなければならない。大学新入生の環境の変化による心理的ストレスに焦点をあてる性質上、実験は大学の前期中に行われる必要があった。時間的制約のため、最終的な調査協力者は24名にとどまった。より精密な効果測定のためには、今後サンプル数を増やし実施する必要がある。

自助的方法としての筆記表現法は、場所や時間を選ばず自分1人で行えるという利点がある。ただし、本来の効果が得られるためには、実施者の任意の参加と、定められた方法を遵守しなければならない。本研究においても、潜在的参加者に対し実験参加した者の割合は多くなかった。この点で、筆記表現法を含む自助的方法の現実場面の有効性の検討(たとえば参加を阻害する要因)も行われるべきであろう。

本研究は予備的研究として行われた。筆記表現法の効果や有効性についての結論を導くためには、さらなるデータの蓄積が求められる。