Research & Review (2008年8月号)

消費者政策と市場の規範

谷 みどり
上席研究員(非常勤)/商務情報政策局消費者政策研究官

消費者問題の拡大

自治体の消費者センターに寄せられる消費者相談の件数は20世紀末から急速に増加し、2005年度は若干減少したが、前世紀に比べるとまだ高水準にある(図1)。相談の相当部分が特定商取引法の対象である悪質商法に関係しており、相談件数が減少した年は、特定商取引法に基づく行政処分を強化した頃である(表1)。

図1 消費者相談件数の推移
表1 特定商取引法に基づく行政処分件数

消費者問題は一般に、事業者と消費者の交渉力等の格差に起因するとされている。悪質商法の増加は、事業者と消費者の間の格差が拡大したからだろうか。確かに、一人暮らしの高齢者など、悪質事業者に付け込まれやすい消費者は増えている。また、悪質事業者は、販売目的を隠して話し始め「このままではたいへんなことになる」と危機感をあおって購入させるなど、消費者の心理を巧みに操る騙しの技術を磨いている。

しかし、事業者と消費者の間の格差が拡大したと一般的に言えるわけではない。悪質商法の被害は高齢者だけでなく、若者を対象とするキャッチセールスやマルチ商法、会社員を対象とする電話勧誘などもある。また、悪質化した事業者とは逆に、よりよい消費者対応に以前より努力する事業者やそこに働く専門家も増加している。更に、インターネットオークションなど、事業者と消費者の区分が不明瞭な場合も増えている。

法律だけではない市場の規範

悪質商法の増加の背景に、市場参加者相互の協力をもたらす力の源である「市場の規範」が弱まったことがあるのではないか。

「市場の規範」としてまず考えられるのは、法律に基づく強制力によって遵守を担保しようとするものである。たとえば、特定商取引法に基づく行政処分が、意図的に規範を守らず利益を上げる悪質事業者を排除する。しかし、「市場の規範」はこれだけではない。

法以外の規範の影響は大きい。自主的な規範を、強制ではなく経済社会の圧力で守るものがある。たとえば、「消費者・顧客の満足と信頼」に言及した経団連の「企業行動憲章」は、会員に遵守に向けた圧力を加えている。ISOでも、製品安全のための規格や企業の消費者対応など様々な標準が作られ、遵守に向けた経済社会の圧力が発生している。このような「経済社会の圧力」には、遵守しない場合の不利益だけでなく、消費者や投資家がよい事業者を選ぶことにより、遵守した場合に利益を受けることも含まれる。また、苦情対応などの社内システムは、外部からの圧力がなくても自らの良心で守る規範である。

法の中でも、強制されない部分がある。たとえば消費者契約法の事業者の努力義務規定や、消費者基本法の「消費者の権利」は、強制されるものではなく、法の規定により遵守に向けた経済社会の圧力が増すことが期待される規定である。また、消費者基本法第7条には「消費者は、自ら進んで、その消費生活に関して、必要な知識を修得し、及び必要な情報を収集する等自主的かつ合理的に行動するよう努めなければならない」とあるが、これは、消費者が自らの良心で守ることを期待した規範だと考えられる。

これらの「市場の規範」全体を構築し維持することが、悪質商法を含む消費者問題の解決につながる。

信頼感に基づき取引を繰返すために

市場の規範を構築するには、2通りの経路が考えられる。1つ目は、人々が信頼感に基づき取引を繰返す中で、市場の規範を自ら創設・遵守し、他人にも遵守に向けた圧力を加えることである。しかし、これはうまく行かない場合があり、そのまま放置すると規範を守る人が損をする状況になって、社会全体が規範を守らない方向に動いてしまう危険がある。そこで、2つ目の経路として、強制も必要になる。

昔、消費者が徒歩圏内で米など限られた品目を購入していた時、消費者取引は主に近所の店と顔なじみの客との繰返し取引で行われた。狭い商圏で店が客を裏切れば、信頼感を損なって悪評が立ち売り上げが減る。こうして市場の規範を守る経済社会の圧力が働き、規範構築の1つ目の経路がうまく行った。しかし、経済の発展で商品や役務が多様化し、交通や電子商取引の発展で商圏が広がると、同一品目、同一相手との繰返し取引は減少し、場合によっては真の取引相手が誰かさえよくわからない。これなら、客を裏切っても別の客をみつけられる。悪質商法が増える土壌として、このような市場の変化がある。

悪質商法は、消費者に被害を与えるだけではない。従業員に悪質勧誘の方法を教え、その成果で報酬を出すことにより、人を騙すわざと、それを恥と思わない価値観を植えつける。また、社会の信頼感を損ない、誠実な事業者から顧客を奪う。

市場の規範を構築する消費者政策は、各人の行動を全体のためになる方向に動機付けることにより、国民生活を向上させるとともに、国の発展を促す。

消費者政策は、消費者、事業者を含む多様な市場参加者の協力も得て、取引相手と協力しやすい構造を作ることができる。また、行政処分などで市場の規範に違反することのコストを上げ、市場参加者がよい行動方針をとりやすくすることができる。更に、消費者政策は、市場関係者の行動を促す共通知識の情報拠点としての役割を果たし、調整コストを下げることができる。

これは、政府だけでは達成できない。消費者、誠実な事業者、政府のすべてが、市場の規範を構築、維持するためにともに支えあう形で、消費者政策が進められるよう願う。

2008年8月21日掲載