特集:2006年度通商白書-「持続する成長力」に向けて (2006年8月号)

人口減少や中国経済について新しい視座を提供した白書

深尾 京司
ファカルティフェロー/一橋大学経済研究所教授

今年の通商白書の特色は、日本が直面する重要な経済問題について、経済学の基本に忠実な重厚な分析を行ったことにある。

例えば、中心テーマである「人口減少の下で如何に日本の豊かさを保つか」について、標準的な経済理論(活発な国際資本移動を前提とした新古典派成長モデル)に基づいて分析を展開している。この理論によれば、1人当たり所得拡大の源泉は、(1)労働力率上昇や労働の質向上、(2)国内資本の蓄積、(3)全要素生産性の上昇、(4)対外投資収益拡大、にあるが、このうち(2)は、(1)や(3)に依存して内生的に決まる筋合いにある。潤沢な労働供給や生産性拡大が、日本を魅力ある投資先にし、資本蓄積を促すからである。このような視点から、白書は(1)、(3)、(4)に集中する。白書のこの立場は、資本蓄積の決定要因に関する前提が曖昧で、楽観的な資本蓄積シナリオに基づいている経済産業省の『新経済成長戦略』と好対照を成す。

分析はしばしば、緻密で斬新である。例えば、筆者もプロジェクトに参加したため手前味噌になるが、白書は一橋大学の研究者達と協力して、日本で初めて賃金センサスと工業センサスの工場データをマッチングしてパネルデータを作成し、年齢に関する生産性プロファイルと賃金プロファイルを同時に推定した。これにより、両者の傾きの違いを検証し、労働属性別に労働生産性と賃金率の間の格差を算出した。この結果、白書は日本の製造業では賃金プロファイルの傾きの方が、生産性プロファイルの傾きよりも大きく、従って、若年労働者は生産性以下の報酬を、中高年労働者は生産性以上の報酬を得ていると結論付けている(図1…白書の付注第1-2図参照)。この結果は、団塊の世代退職の経済へのマイナス効果は通常想定されているよりも小さく、一方、定年延長は給与削減を伴わない限り企業に大きな負担となる、といった重要な含意を持つ。

なお、筆者は白書の(4)対外投資収益拡大に関する議論が、やや楽観的に過ぎるように思われる。今後高齢化により日本の貯蓄率は急速に減少すると予想されるが(この点については、激しい減少を予想する多くの経済学者やIMFと、あまり減少しないと予想する日本政府の間で意見の不一致がある)、このような状況で対外投資収益拡大は必ずしも容易でないと思われる。日本が見習うべきと白書が指摘している米国や英国は、世界の銀行として低利で預金を集め、ハイリスク・ハイリターンの貸し出しを行うことにより、投資収益を稼ぎ出している。日本の銀行の低い国際競争力、金融仲介業のアジアにおけるハブ機能争奪戦において、東京がシンガポールに負けつつあるという事実、などから判断すると、日本が英米のようになるのは、難しいと予想される。

白書は、日本の最大の隣国である中国が抱える深刻な経済問題についても、明晰な分析を展開している。白書によれば、中国沿海部では経済成長に伴い、賃金をはじめとした労働コストがタイ並みの水準にまで上昇し、多国籍企業にとって輸出基地としての魅力が薄れつつある。1990年代以降の中国経済の驚異的な成功の基礎は、多国籍企業により中国の安価な生産物が世界の市場で通用する財に作り変えられた事にあった。コスト上昇の下で、中国の高成長は、輸出主導から、GDPの48.6%(2005年)にも達している固定資本形成依存型へと変質しつつある。資本形成の内容も、輸出基地拡大を目指す外資主導の効率的な投資から、インフラ整備や国内向け供給機能拡大中心の投資へと変わりつつある。

中央・地方政府が採算を度外視して投資を拡大し、国有銀行の不良債権問題を政府が支援し続ける中国では、このような投資主導の成長は何時までも続けられるように一見思われる。しかし、投資効率の急速な悪化により(白書は中国において限界資本係数が急速に上昇しつつあることを指摘している)、中国は早晩GDPの大部分を投資につぎ込んでも高成長を維持できない飽和点に達すると予想される。白書はこの他にも、不平等の拡大による社会不安など、中国経済が抱える問題を鋭く指摘しており、興味深い。

白書では十分に分析されていない中国のもう1つの脆さは、政治的な不安定性であろう。中国では共産党独裁が続いているが、独裁は非効率的な資源配分を生み出し、逆に経済成長は民主化を求める中産階級を育てるため、本来、成長と独裁は長期的には両立が難しい関係にある。図2に示したように、安い国内物価を考慮すると、中国の1人当たりGDPは、購買力平価で換算して現在約6000ドルと考えられる。台湾や韓国の民主化の経験と比較すると(これらの国で民主化が何時行われたかを判断することは難しいが)、台湾では6000ドルに達して8年後に戒厳令解除と複数政党が参加した選挙の実施が、韓国では3年後に民主化運動の高まりと改憲による大統領選の直接選挙制への移行が行われた。中国の民主化は間近に迫った問題であり、民主化が円滑に進むか否かを今後注視すべきであろう。

2006年9月8日掲載

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