ブレイン・ストーミング最前線 (2005年8月号)

ガバナンスと開発援助戦略―南アジア草の根の現場から

西水 美恵子
コンサルティングフェロー

経済開発援助の問題を考えるとき、「What, Why, How」の視点が必要だと思います。何を経済開発と考えるか、なぜ日本にとって開発援助が重要なのか、そしてどうしたら効率性の高い援助が可能か。こうした問題について、私自身がかつて世界銀行の職員として南アジアの各国で見聞きし、感じたことを中心にお話し、共に考えてみたいと思います。

何を経済開発と考えるか

経済開発とは、エコノミストの一般通念的には、その国の国民平均所得を向上し、その所得・富をより平等に分配する、すなわち貧困解消であるといえます。しかし、貧しさとは何なのでしょうか。そもそも貧困や貧困層について、私たちは正しく理解しているのでしょうか。

インドとパキスタンの国境地帯に位置するカシミール地方は海抜2000メートル近い山岳地帯です。小さな段々畑が急斜面にしがみついているような寒村が点在していますが、水道・電気は通っていません。道路も未整備です。そこで、ワラと土壁でできた粗末な家に暮らすある未亡人の1日の生活を、彼女の言葉で語ってもらいましょう。

「早朝、日の出前、まず水汲みに山に入る。泉まで1時間登り、また1時間かけて下る。それから子供たちと朝食。お茶と夕べの残りのパン一切れ。
そしてヤギに餌をやる。
涼しいうちに畑仕事。麦と野菜は自分たちで食べるだけしか作れない。売るほど作る土地はない。
昼近く、また水汲みに山へ入る。
泉まで1時間登り、また1時間かけて下る。
昼食は子供たちにはお茶。自分は水だけ。
それから掃除、ヤギの餌集め、薪集め。
水が余っていれば洗濯ができる。
夕方また水汲みに。疲れているから時間がかかる。往復3時間。
夕食はヒラマメのスープとパン。
寝るまで暗闇の中で子供たちと話す。わたしはこの時間が1番好きだ。」
そして彼女はこう付け加えました。
「毎日、くる日もくる日も、同じ事のくりかえし。これは人生ではない。動物のように、ただ体を生かしているだけ(This is not life. This is just keeping a body alive)。
自分が病気になったら皆飢え死にする。
それが恐ろしい。
気が狂ってしまうかと思う時さえある。
希望はただひとつ。村に小学校がほしい。
子供たちが教育を受けて、こんな生活を繰り返さないように。」(訳…西水)

世界銀行に勤務していたころ、体験学習として、部下と共に南アジア8カ国でそれぞれ1週間のホームステイをする機会を得ました。どの国でも、言葉や文化は違っても、貧しい人々から得た教訓は共通していました。人間が人間として生きるために最低限必要とする「条件」は、肉体・精神の健康と、生き甲斐を与える希望。それを確保できない生活が「貧しさ」の真髄なのです。つまりベーシック・ヒューマン・セキュリティ(人間の安全保障)が確保されていないのです。

なぜ開発援助は重要なのか

現在、世界の貧困層は10億人以上と言われます。しかしその大半が、アフリカ諸国ではなくアジア、とりわけ南アジアに集中しているという事実は意外に知られていないのではないでしょうか。インドやバングラデシュ、パキスタンなどを中心に5億人以上が、病魔や飢餓と紙一重の生活を恐れながら、子供の教育に夢を託すことさえできない日々を送っているのです。

貧困の問題はしばしば、途上国の発展段階における「過渡的な」問題にすぎないととらえられがちですが、これも誤解です。これらの国々は、過去何世代にもわたりこうした苦しみを強いられてきた事実を忘れてはならないと思います。

貧困が悪循環のように続く原因は、悪質なガバナンスです。資源が不足しているから起きる「自然現象」ではなく、「人造現象」なのです。その実態を、例をあげて説明しましょう。

まず医療の場における例から。南アジアの貧民がよく使う「泥棒病院と病院泥棒」という表現があります。「泥棒病院」とは、権力者が建築費を水増し請求し、上前をはねるために病院施設を設立することです。これに対し、できた病院施設が本来の目的ではなく、穀物の貯蔵庫や、ひどい場合には権力者の自宅として利用されることを「病院泥棒」というのだそうです。「ゴースト・ドクターズ」という言葉もあります。公立の病院では医師や看護婦の無断欠勤が多いのですが、たいてい個人経営の病院で働いているということでした。

次に「空き巣も呆れる薬棚」。ご想像いただけると思いますが、田舎の病院に行って薬棚をあけるとホコリばかりで空っぽです。薬剤配布ルートの途中でヤミ市場に流されているのだそうです。そして、「電気のつかないレントゲン機」。村に電気は来ているのですが、レントゲンを接続することができません。なぜか。なんと、役人が接続コードを握っていて、賄賂なしでは入手できないからなのでした。

このような医療現場に関する例は決して珍しくなく、むしろシステム化しているケースさえあります。GDPの数%が公共保健衛生費用なのに、貧しい人々は民間の医療施設にいくしかありません。悪質なガバナンスのせいで、せっかくの建物や機材・薬剤が効果を生むことなく終わっている。国家予算の無駄と言わざるをえません。

教育の場でも、事情は同じです。「大人のための小学校」という言葉があるのですが、やはり権力者が建築費目当てに、子供の人口分布など実際のニーズと関係なく学校を建ててしまうことを皮肉った表現です。「ゴースト・ティーチャーズ」、これは先ほどの幽霊医者とは異なり、高い年金がもらえるなど待遇のよい教職をお金で「買う」というもので、改革が進んだムシャラフ政権以前のパキスタンでは、市場相場がはっきり成立していました。

また、新しい教育大臣が就任するとそのたびに教科書が値上がりし、収益の一部が大臣の懐に選挙用資金としておさまる。これを「値上げ大臣」といっています。さらにひどいのは、新学期が始まって半年もたつのに、配送の荷分けポイントごとに賄賂を要求されるので、学校に教科書が届かない。教師用の教科書を手書きで写してようやく勉強していました。奨学金の横領もかなりあると推測されます。

こうした状況なので、GDPの数%が国民教育費なのに、貧しい人々は公立の学校をあきらめ、宗教団体やNGOが運営する教育機関に子供を出さざるをえません。問題は国家予算の大きな無駄だけではありません。そうした傾向によって学校は過激なテログループの温床と化し、子供が人材としてかり集められる機会を増やしているのです。ネパールのマオイスト(毛沢東主義者)集団、アフガニスタンのタリバン(「学生軍」の意味)などがその実例です。

医療や教育以外の分野においても、悪質なガバナンスの具体例をあげればきりがありません。正規のルートで配電するのに必要な賄賂が支払えないため、電線に釣り針を引っかけて電気を盗む人が後を絶たないので、電力各社は赤字を抱えており、これが国家財政悪化の最大要因となっている国々もあります。

悪質なガバナンスそのものも問題ですが、絶対に見逃してはいけないのは、多種多様な形で権力者層に「人間として生きる条件」を否定されてきた人々の鬱憤と怒り。それは、私たち恵まれた人間には想像もつかないものです。特に、政治家や官僚などが腐敗した環境に育った若い世代は、権力に対する怒りが高じると犯罪やテロ活動、過激な宗教運動にはけ口を求めます。貧困がテロの温床になるのはそういう理由です。言い換えれば、人間の安全保障はそのまま国家の安全保障につながるものであり、ひいては国際社会全体にとって重要な課題となります。その一例が9.11だったともいえるでしょう。世界の平和なしに日本の平和はありえません。我が国にとって開発援助が重要な理由は、ここにあります。

どうしたら効率性の高い援助が可能か

悪いガバナンスの悪循環を絶つことが必要であることは、おわかりいただけたかと思います。しかし、当然のことながらガバナンスの形はその国によって異なります。開発援助の戦略を国別に策定する事が必要です。

戦略の大綱として、改革の意欲をもった優秀な人材を発掘し、その活動を外から支援することで育成していくという考え方は、有効なアプローチの1つでしょう。「善」なる指導者を民主主義政治に押し出していくというわけです。道路を通したり橋をかけたりというインフラ整備に代表されるような、いわゆるセクター別の開発戦略は、手段としては多いのですが、実際の効果はあまり高くないのではと私は考えています。というのも、経済発展はセクターごとにおきるものではなく、もっとホリスティック(全体的)なものだからです。

内政干渉といわれない、正の外圧としての援助を行うためには、援助要請にノーということが援助をする以上に重要となります。ムシャラフ政権が成立する前のパキスタンに対し、世銀は数年間援助を凍結していましたが、それにはちゃんとした理由がありました。ガバナンスの状態が悪すぎたからです。プロジェクトをやっていないと何もしていないように見えますが、「そんなことをやっているあいだは援助しませんよ」という態度をはっきり示すのですから、無意味どころか非常に有意義なことです。

質疑応答

Q:

政治的な対抗勢力をサポートするというお話ですが、具体的にはどうすればよいのでしょうか。

A:

何も、野党指導者を支援せよということではありません。改革を既に推進している自治体と対話を進めるのも1つのポイントです。成功例もあります。南アジア地域における世銀の国別援助戦略は、改革者と一緒に仕事をするという方針でした。例えばネパールでは「地域学校支援プロジェクト」と称し、公立学校の運営権限を、政府から補助金をつけて地域社会に移管するプロジェクトに資金援助を行ったのです。約100校を選び試験的にスタートしたところ大変好評で、全国規模に広がりました。結果として、ネパールの改革を推進する指導者たちは、腐敗した文部省から学校を切り離すことに成功したのです。

Q:

開発援助については、被援助国を全体的に底上げするというマクロ的視野にたった援助のほかに、より個人の目線に近いミクロの援助もあって幅が広いということが、今日のお話を伺って理解できました。役所の考える援助の内容は従来、鉄道や橋などハード中心だったことは事実で、インフラ投資の重要性に変わりはないが、ミクロな取りくみも必要である、セクターアプローチではなく相互にリンクした援助ということで、プロジェクトタイプからプログラムタイプへのシフトが求められている、ということかと思います。また、相手にノーという点については、バイ(2国間)の援助ではいいにくい面もあるが、協調融資ならいいやすいでしょうし、日本の場合、NGOの活用をもっと検討すべきとも思います。ただ、例えば円借款という形に対し、そのようなミクロのアプローチをどのように取り入れるべきかは難しいところだと思いますが。

A:

日本は、規模の大きい援助ができるというメリットを生かし、マクロ的なインパクトのある援助は引き続きやっていただく必要があります。しかし、ドナーの立場からスケールの大小だけで効果をはかるのではなく、受け取る側の立場に立って工夫すれば、先ほどご紹介したネパールの学校のように、最初はミクロな援助でも、十分な波及効果がえられるということではないでしょうか。

Q:

米国では現在、政府主導でミレニアム・チャレンジ・アカウント(MCA)といって、従来の思考にとらわれない被援助国の立場にたった新しい援助を進めていますが、先生はどのように評価されますか? また、開発援助を行うにあたり、何を目的とすべきでしょうか。

A:

MCAについては、アイデアとしては素晴らしいが、現場での人材が足りない米国の実態を考えると、実際にやるのは大変ではないかと当初思っていましたが、今はどうでしょうか。開発援助の目的を貧困削減とみなすことは概念としては正しいと思うが、それだけなのかというご質問に対してですが、開発を経済・政治・社会の変化のプロセスであり、先進国も途上国も等しく通る道であるととらえたらどうでしょう。アジアの小国ブータンは、国としての富は国民の幸せであると考えているユニークな国です。そこでは、国民がブータン人としてのアイデンティティを持ち、自分の国を誇りに思えるような国づくりを目指しています。先進国である日本は、経済発展をとげたあげく、社会病ともいうべき状態に今陥っているわけですが、ブータンはそうした状況を見越して、何十年も前から取りくんでいるのです。援助とは直接関係ないことと思われがちですが、考えさせられます。

※本稿は6月8日に開催されたセミナーの内容に一部加筆したものです。
掲載されている内容の引用・転載を禁じます。(文責・RIETI編集部)

2005年8月23日掲載

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