2003年版通商白書特集 (2003年8月号)

2003年度版通商白書-編集後記として

久武 昌人
前通商政策局情報調査課長/経済産業研究所 上席研究員

通商白書2003では、東アジア経済と日本に関する記述に多くの紙面を割いた。昨年に引き続き白書を担当する僥倖に恵まれた者として、所感等を述べさせていただきたい。

今回、分析を行う際の視角、あるいは技術的ツール主として用いたのは、経済に関する「制度」である。特に、第一章第三節「企業を取り巻く経済システムの変化―企業システムの多様性とその改善の方向性における共通性―」では、この観点からの分析を行った。

経済成長は、どのような「資本」、「労働」がどのくらい投入され、それらがどのようにいかされて生産や「イノヴェイション」が行われるかによって決定される。よって、経済成長を論じるに当たっては、こうしたプロセス全体を考察する必要がある。まず、資本と労働の投入の決定は、すなわち、これらの資源をいかに配分するかという問題である。「資源配分」には、通常、2つの方法があると考えられている。1つは「市場」であり、もう1つは「組織」である。市場では、取引主体間の競争の結果、価格により資源配分が決定される。他方、企業をその代表例とする組織では、権限により資源配分が決定される。

配分された資本及び労働を活用した生産とイノヴェイションの創出との両者が相まって経済成長が決定されるわけであるが、このプロセス全体に「制度」が大きな影響を与えることが近年強く認識されるに至っている。経済史家は、特に新しい制度経済史において顕著であるが、投資とイノヴェイションの誘引構造が与える影響を強調し、経済格差は制度的なルールの経路依存性から生じると論じている。例えば、ノース(North)によれば、制度はゲームのルールであり、公式のものと非公式のものの2種類がある。前者は、一般の法制度(関税、投資に関わる諸制度、契約法)、さらには国家の基本法(憲法)等が含まれる。後者は、慣習的な取決めのことであり、「文化、風土」という用語で表現されることもある。前者は明示的なものゆえ導入することが可能であるが、後者がそれ以前のままであると、結局は導入した(公式の)制度が機能し得ない。制度分析が対象とするものは、私的所有権の配置、法律の制定とその執行関連サービス、資金供給メカニズム、研究開発メカニズム、労働市場、商慣行等の態様等々幅広いが、制度は、各プレイヤー、組織及び個人の、ゲームのプレイのされ方についての共通了解となるものであると考えて良いであろう(注1)。こうした制度をめぐる議論は東アジアに関しても盛んで、青木(Aoki)を代表とする研究者達が日本や東アジアに関しても多くの知見をもたらしている。

こうした考え方から得られる貴重な教訓は、法律や公式の制度のみを見ているだけではイノヴェイション等との関係できわめて重要な実態を見逃すことになるということである。例えば、仮にある国にある法制度が導入された場合に、その導入=移植プロセスで、実際にその法制度をその国に「適応」させることができたのか、また、もともとその内容がその国の国民にとって「慣れ親しんだ」ものであったのかという諸点をしっかり見なければいけないということとなる(注2)。

経済システムに関する詳しい内容は、通商白書2003本体(第一章第三節)をご覧いただければ幸いであるが、この部分を含み、ファクト・ファインディングを行った前半部分(第一章及び第二章)のメッセージのポイントは次の通りである。

「経済システムの改善の方向性には、相互牽制の確保や必要な情報の共有という共通の方向性が存在する。他方、その態様には各国ごとの多様性があるのであって、「ある唯一のシステムが優れており、そのモデルに収斂する」というわけではないと考えられる。よって、何かを模倣すれば済むということでもなく、また、「我々のシステムは今のままでよい」ということでもない。結局、いずれの国家であっても、自らを見つめ、自ら考え、自ら実行するしかない。日本もこのことを自覚し、努力を続けなければならない。」

「実は、日本も無自覚に拱手しているわけではない。懸命に努力を続けている。失われた10年と言われるが、着実な変化が生じている。東アジア地域におけるしたたかな日本企業の活動とその戦略的な取組みを見てみても、また、目を凝らすまでもなく、日本企業を取り巻く経済システムにおける力強い変化を見てみても、それは明らかである。」

現在、日本の変化は顕在化し、明るい兆しも感じられるようになってきていると言ってもよいのではないだろうか。確かに、その成果は、現段階では素晴らしいというほどのものではないかもしれない。また、本当に良い方向への変化かどうかについてすらコンセンサスは得られていないのかもしれない。もとより、いかなる楽観主義者であっても単純に喜べるような状況では全くない。さはさりながら、極めてしたたかに生き抜いている企業群が存在し、また、より自由度の高い経済システムを日本人が求め変化を起こしてきていることもまた事実である。

ただ、ここで注意を喚起したいのは、GDP等では計測できない価値を含めて、経済政策の目標として何を想定しそれをいかに測るかは、国民としての意思決定によるべきものであるということである。定量化は決して容易ではない課題、例えば、「生活の質」といった側面も含めて複数の政策の選択肢が準備され、それを巡る議論を経て意思決定がなされるという形態は可能であり、むしろそれが望まれている。今回の執筆プロセスで、ドイツの有識者達が、グローバリゼイションへの対応の必要性を認めながらも、同時に、自分たちの生活スタイルといったものを大切にする姿勢を顕わにしていることを知り得たことは印象深いものであった。

さて、日本は既に変化をし始めているとして、一体、その先にどのような経済社会が待っているのだろうか。あるいは、どのような経済社会を我々は求めていくのだろうか。

先進国に追いつくということではなく、新たに自分自身で「坂の上の雲」を追い求める。その模索の旅は既に始まっている。

脚注
  • (注1)なお、「制度」の定義自体をめぐる議論も盛んであり、イノヴェイションとの関連での概念整理も含めて、御関心がある向きにおかれては、例えば、Nelson and Sampat (1999), "Making Sense of Institutions as a Factor Shaping Economic Performance," 等を参照されたい。
  • (注2)この点に関してご関心をお持ちの方は、鶴(2003)が、要にして簡な優れた紹介を提供しており、経済産業研究所のホームページ上(http://www.rieti.go.jp/users/economics-review/012.html)でご覧いただけるので、そちらを参照いただきたい。

2003年8月13日掲載