ここ数年間に良くなったこと
2020年はアベノミクスが始まって8年目になる。どこまでが政策効果かは別として、ここ数年間に改善した経済指標は多い。法人企業の営業利益は2012~18年度の間、約1.7倍に増加し、非製造業の売上高利益率はこれまでで最も高い数字である(注1)。 完全失業率は2%台前半と「失われた20年」以前の水準にまで低下し、人手不足を背景に女性や高齢者の労働参加率は上昇した。
日本人の生活満足度は向上しており、2018年には戦後最高になった(注2)。 おそらく雇用環境の改善、低い物価上昇率などが貢献している。政府・日銀が数値目標として掲げてきた消費者物価上昇率2%は実現していないが、一般国民にとって低い物価上昇率は生活満足度にプラスに働く。生活満足度の高まりは若い世代の男性で顕著で、期待値が低くなったからという解釈もありうるが、高い生活満足度自体は良いことである。
政治の安定が不確実性を低減したことも指摘できる。2006~12年にかけて政権交代を挟んで約1年間の短命政権が続いた。党派対立や不安定な政治が景気や経済成長に負の影響を持つことは多くの研究が示している(注3)。第二次安倍内閣発足以降、特に2013年にねじれ国会が解消してからは、政治的な不確実性が低下した(注4)。最近は英国のEU離脱交渉、米中貿易摩擦、中東情勢の緊迫化など海外発の不確実性の高まりが顕著で、日本もその影響を免れない。しかし、国内発の政治的不確実性は低下し、日本経済へのネガティブな影響は小さくなったと考えられる。
低迷が続く生産性・国際競争力
一方、生産性上昇率の鈍化、賃金の低迷、国際競争力の低下、財政収支黒字化の遅れ、地域経済の衰退など未解決の課題も多い。ここ数年の経済成長率を平均してみると1%程度だが、日本経済の実力つまり潜在成長率を若干上回っている。従って成長率をさらに高めるには潜在成長率の引き上げが必要になる。アベノミクスの下で潜在成長率は0.3%ポイントほど高まったが、これは女性・高齢者の労働参加率上昇などインプットの増加に依存しており、生産性(TFP)上昇率は漸減傾向にある。内閣府や日本銀行の推計によれば、2012~18年度の間、TFP上昇率は▲0.5~▲0.7%ポイント低下した。賃金が上がらないことも問題とされているが、賃金と生産性は表裏一体である。労働分配率の変化も賃金に影響するが、量的に見るとその効果は限定的で、大局的に見れば賃金は生産性と連動している(注5)。
日本の国際競争力も長期的に低下を続けてきた。国際競争力という言葉は多義的だが、経済学的には交易条件に着目すると良い(注6)。交易条件とは輸出財・サービスの輸入財・サービスに対する相対価格である。交易条件の改善/悪化はGDPやマクロ経済の生産性には反映されないが、交易利得/交易損失という形で国民総所得(GNI)に影響する。1990年代以降日本の交易条件は約4割悪化しており、機械的に計算すると年率約▲2%のペースで日本の相対的な国際競争力が低下してきたことになる。ここ数年に限ると悪化に歯止めがかかる兆しがあるものの、改善幅は小さい。
生産性向上や交易条件改善のためには、イノベーション、特に優れた新製品・新サービスの開発・普及というプロダクト・イノベーションが果たす役割が大きい。イノベーションは不確実性を伴うので、積極的なリスクテイキングが必要になる。そのためにはイノベーションを担う企業や個人の裁量の余地を拡げ、伸び伸びと働ける環境を作ることが重要である。
規制・コンプライアンスと生産性
しばらく前までの成長戦略では、生産性革命のための岩盤規制改革が強調されていた。規制は、①遵守のための直接的なコスト増加、②参入・新分野進出など新陳代謝機能への影響、③規制の解釈や執行の不確実性に起因するリスクテイキング抑制などの経路を通じて、生産性やイノベーションにネガティブな影響を持つ。
政府規制の対象業種は限られていると思われるかもしれないが、企業はさまざまな事業を展開しており、それらの中には規制対象となるものがしばしばある。日本企業を対象に筆者が行った調査によれば、56%の企業は法令に基づく許認可を要する事業を行っている(注7)。製造業の企業でも49%あり、サービス産業の企業では64%にのぼる。
運輸、電力・ガス、医療・福祉、教育などの分野では現在でも産業固有の許認可制度が広範に存在するが、規制の中で大きなシェアを占めるのは、特定の産業を対象とした許認可よりも産業横断的な社会的規制である。労働規制、環境規制、土地利用規制などがこれに当たる。海外のいくつかの研究は、こうした社会的規制がGDPや生産性に対して大きな負の影響を持つことを明らかにしている(注8)。
労働時間のうち無視できない部分は、法令・行政指導やそれを受けた社内ルールの整備・執行に充てられている。許認可のような強い規制でなくても、定期的な報告義務、検査に備えた資料準備などさまざまな仕事が発生する。ひとつひとつのルールのコストは小さくても、ボディブローのように生産性に効いてくる。法令やルール遵守のための直接費用を調査したところ、企業によって大きく異なるが、平均値は営業費用の2.6%だった。この数字は小さいと思われるかもしれないが、企業の付加価値額に対する比率に換算すると約16%になる。仮にコンプライアンス・コストを半減できれば、生産性を平均約8%高めることができる計算になる(注9)。
コンプライアンス・コストは固定費的な性格を持つため、規模が小さい企業ほど負担が大きく、企業規模が半分だとコンプライアンス・コストの割合が8%ほど大きいという明瞭な関係が観察される。中小企業の低生産性の一因となっている可能性があるほか、新規参入コストを高めることを通じて、新陳代謝を阻害する影響もあるだろう。
どういう分野のコンプライアンス・コストが大きいのかを見ると、圧倒的に多くの企業が挙げたのが労働規制、次いで環境規制で、事業の許認可よりもずっと多い(表1参照)。規制緩和が期待される分野は、やはり労働規制が突出して多く、それ以外では土地利用規制・建築規制、環境規制、事業の許認可、会社法制を挙げた企業が多い。労働規制をはじめ社会的規制は、「安全・安心」など生産性や経済成長とは異なる目的で行われているので、規制緩和はそれら別の価値との間でのトレードオフを孕む。社会的規制の緩和は成長政策としての重要性が高いものの、政治的には難しい。しかし、公務員を含む労働力不足の深刻化や「働き方改革」の下、できるだけ簡素で労働投入量の少ない仕組みにすることが望ましい。
(1) コンプライアンス・コストが大きい制度 | (2) 規制緩和が期待される分野 | |
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事業の許認可 | 16.7% | 26.6% |
労働規制 | 66.6% | 66.1% |
環境規制 | 33.7% | 27.6% |
土地利用規制・建築規制 | 4.8% | 27.6% |
消費者保護規制 | 6.8% | 7.9% |
会社法制 | 13.9% | 24.8% |
職業資格制度 | 2.6% | 11.8% |
(注)「経済政策と企業経営に関するアンケート調査」(2019年)より作成。 |
規制の解釈・運用の不確実性による萎縮効果
規制のもうひとつの弊害が、解釈や執行の不確実性である。規制の範囲や内容は法令上明示されているが、あり得る全ての事象を事前に網羅することはできないので、必ず裁量の余地や解釈・運用における不確実性が残る。労働規制、消費者保護規制、環境規制などの不確実性が経営に影響していると考えている企業は多い(注10)。マクロ経済政策や貿易政策の不確実性が、投資・雇用・輸出など実体経済活動に負の影響を持つことは、多くの研究が明らかにしている(注11)。国内の諸規制やその運用の不確実性の影響に関する実証分析は少ないが、規制の不確実性は企業行動を慎重にする可能性が高い。
この点は、革新的な技術開発や新規事業において特に深刻な問題となる。規制の解釈・運用の不確実性は、積極的なリスクテイキングを難しくする。特に法令違反への国民やメディアの関心が高くなっている中、企業行動を委縮させる恐れがある。こうした問題意識から、規制の適用範囲が不明確な場合に新分野進出を円滑化するための「グレーゾーン解消制度」(2014年)、既存の規制にとらわれず新技術の実証を可能にする「規制のサンドボックス制度」(2018年)といった仕組みが導入されたが、これらを利用するためにも相応の労働投入が必要になる。
このところ規制改革への関心が後退している印象があるが、生産性や潜在成長率を高めるため、再び成長政策の中心に位置付けることが期待される。また、補助金や租税特別措置といった金銭的な助成政策だけでなく、規制・ルールについても実証的な評価を行い、エビデンスに基づいて費用対効果の高い仕組みとしていく必要がある。