2020年1月以降の日本のインフレ期待の推移:株式市場からの実証分析

THORBECKE, Willem
上席研究員

2020年1月の新型コロナウイルス感染症発生以降の期間は「メガクライシス期」として位置付けられている。新型コロナウイルスパンデミック、ロシア・ウクライナ戦争、不安定な原油・食料価格、トランプ政権下での貿易戦争、為替変動など、複合的なショックが世界経済を揺るがしている。これらの要因は日本におけるインフレ期待にどのような影響を及ぼしてきたのか?

原油および食料価格の高騰、円安などの要因によりインフレ率が上昇する可能性がある。日本銀行(以下、日銀)は、少なくとも2013年3月、黒田東彦氏の総裁就任以後、インフレ率の引き上げに努めてきた。まず、2013年4月に量的・質的金融緩和を導入し、マネタリーベースを大幅に拡大した。2016年1月にはマイナス金利を導入し、2016年9月に短期・長期金利をターゲットとするイールドカーブ・コントロールを開始した。さらに2024年3月、無担保コールレート(オーバーナイト物)のマイナス金利政策を解除し、2024年7月には同レートの誘導目標を0.25%へ、2025年1月には0.5%へと引き上げた。 物価上昇、円安、日銀の金融政策等によるショックに対し、インフレ期待はどのように反応してきたのか。これを分析する方法の1つは、インフレ起因の利害の影響を受ける資産の推移に着目することである。もし投資家が今後さらなるインフレの高まりを予想するならば、インフレの恩恵を受ける資産を購入し、インフレによって損害を受ける資産を売却すると推測できる。これらの行動によって、インフレから利益を得る資産の価格は押し上げられ、インフレの影響を受けやすい資産の価格は低下することになる。

インフレに関するニュースによって資産がどのような影響を受けるかを調査するために、日本の86業種の株式収益を期待インフレ率およびその他の変数に基づいて回帰分析した。期待インフレ率の算出には、日本の10年物価連動国債のデータを用いた。具体的には、日本の10年国債と10年物価連動国債の利回りの差を期待インフレ率の指標とした。この指標には、投資家がインフレリスクに対して要求する補償も含まれている。この利回りの差のことを損益分岐インフレ率(Breakeven Inflation Rate, BEI)と呼び、BEIがプラスの場合は、投資家が今後10年間のインフレ率の高まりを予測していることを意味する。

本稿では、2013年1月1日から2025年3月12日までの期間における86業種のBEIの変化を、原油価格の対数変化率、円/ドル名目為替レートの変動、その他の変数に基づいて、回帰分析を行った。これにより、インフレ関連のニュースが86業種に与える影響に関する回帰係数(ベータ値)を得ることができる。

BEIに対して正のベータ値を持つ資産は、インフレ率の上昇を予想する局面で投資家が利益を得る資産を表し、負のベータ値を持つ資産は、同様の局面で損失を被る資産を表す。今後10年間でさらなるインフレ率の高まりを予測する場合、投資家はBEIに対して正のベータ値を持つ資産を購入し、負のベータ値を持つ資産を売却するとされる。これにより、インフレ率の上昇から利益を得る資産の収益は増加し、インフレ率の上昇によって損害を受ける資産の収益は減少することとなる。従って、投資家がインフレ率の上昇を予測している場合、資産の収益と損益のベータ値間には正の関係があり、投資家がインフレ率の下落を予想している場合には、負の関係が存在するはずである。

2020年1月から2025年3月までの各月における86業種の資産収益について、損益分岐ベータによる回帰分析を行った。解釈を容易にするために、BEIの変化が日本の株式市場全体の収益に与える影響を算出した。BEIの上昇は、株式市場全体の収益を増加させている。図1はその結果を示している。

図1は、2022年10月以前、投資家は、ある月はインフレ率の上昇(日本株式全体の収益上昇)を予測し、それ以外の月にはインフレ率の下落(日本株式全体の収益低下)を予測していたことを示している。2020年3月に新型コロナのパンデミックのニュースが市場に流れたとき、インフレ率低下の予測から日本の株式市場は10%近く下落した。しかし、2022年10月以降、投資家はインフレ率上昇の予測に転じ、それが株式収益を12カ月間押し上げた。一方、インフレ率の低下を予測したのは4カ月のみだった。これは、2022年10月以降、投資家がインフレ率の低下よりも上昇を予測することの方がはるかに多かったことを示している。

図1:BEIのニュースに関連した日本株式市場全体の収益の変化
図1:BEIのニュースに関連した日本株式市場全体の収益の変化

こうした結果は、日本においてインフレ志向が定着しつつあることを示唆している。現在の日銀総裁である植田和男氏は、いわゆる「良いインフレーション」を目指している。これは、賃金上昇によって消費者支出と総需要が増加することで引き起こされるインフレのことを指す。支出の増加が価格と賃金の上昇を引き上げ、好循環を生み出す。2024年春季労使交渉では賃金が5.1%上昇し、2025年春季労使交渉では賃金が5.5%上昇した。企業も賃上げへの消極的な姿勢を捨てつつある。従って、日本では良好なインフレが達成可能となり、日銀は金融政策を正常化できるかもしれない。

日本政府は、消費者の福祉にとって最終的に重要なのは実質賃金、つまりインフレ調整後の賃金であるということを忘れてはならない。実質賃金は労働生産性によって決まる。生産性を高める方法の1つはテクノロジーを活用することである。野村総合研究所が1万人以上の日本人を対象に実施した調査によると、生成AIを利用したことがあると回答した人はわずか9%にとどまった。中高生に生成AIを体験させることで生成AIへの関心を高めることは可能である。また、大学の公開プログラムや研究機関などを通じて労働者に生成AI研修を提供することも考えられる。より多くの労働者がAIを活用するようになれば、生産性の向上につながるであろう。

政府が生産性を向上しない賃金引き上げに取り組めば、企業の財政に負担をもたらす可能性がある。これはとりわけ中小企業にとって大きな負担となる。中小企業は、人件費の高騰を顧客に転嫁できないことが多い。政府は税制優遇措置や生産性向上のための補助金などを通じて、こうした困難の緩和に注力すべきである。

日銀が政策の正常化を進めると、金利は上昇することになる。政府は、金利上昇に伴って公的債務の持続可能性へのリスクも忘れてはならない。日本の公的債務残高はGDPの250%に相当し、純債務はGDPの170%を超えている。金利が上昇すると、債務返済コストが上昇する。2025年の債務返済コストはGDPの4%を超えると予測されており、金利の上昇はこのコストは一層増加させることになる。従って、政府は金利上昇が債務動向に不利な影響を及ぼすかどうかについて、引き続き警戒するべきである。

本コラムの原文(英語:2025年4月7日掲載)を読む

2025年6月5日掲載