日本企業の中期実質賃金見通し

森川 正之
所長・CRO

政府および日本銀行は、「賃金と物価の好循環」のカギになるのが賃上げだとしており、今年(2024年)の春闘で賃金上昇率が消費者物価(CPI)上昇率を上回り、実質賃金の上昇につながるかどうかが注目されている。さらに、例えば経済財政諮問会議では賃金の持続的・構造的な引き上げについて議論が行われている。本稿では中期的な実質賃金の観点から、日本企業へのサーベイに基づく観察事実を紹介したい。

企業サーベイの概要

以下で用いるのは、2023年度「経済政策と企業経営に関するアンケート調査」である(注1)。2023年12月から2024年1月にかけて従業員50人以上の企業を対象に行ったもので、1,377社から回答を得た。

この調査では、本年度(短期)および5年先(中期)に、自社の常時従業者の賃金が2022年度に比べてどの程度増加/減少すると見込んでいるか尋ねている。中期的な賃金見通しの質問の具体的な文言は、「貴社の常時従業者の5年後の平均賃金は、昨年度(2022年度)末に比べて何%程度増減すると見込んでいますか」である。この他、自社売上高の5年後の見通し、5年後までのCPI上昇率(年率)の予測値を尋ねている(注2)。従って、各企業の中期的な実質賃金変化率の予測値を計算できる。賃金や売上高は、5年後の数字を前年度(2022年度)との比較で尋ねているので、本稿ではこれらは年率換算する。なお、伸び率の変数は、極端に大きい/小さい数字を回答した企業があるため、回答のうち上下各1%を異常値処理(winsorize)する。

これら定量的な質問の他、①賃金引き上げの方針、②コスト上昇の価格転嫁状況に関する定性的な質問を行っている。賃金引き上げ方針の質問は、「今後の賃金引き上げについての貴社の方針について伺います」で、回答の選択肢は、①「消費者物価上昇率以上の賃金引き上げを行っていく」、②「消費者物価の上昇率に見合った賃金引き上げを行っていく」、③「消費者物価の上昇率を下回るが、賃金引き上げを行っていく」、④「賃金引き上げは難しい」の4つである。

価格転嫁状況についての質問は、「人件費を含むコスト上昇の製品やサービス価格への転嫁の状況について伺います」で、回答の選択肢は、①「人件費を含むコスト上昇をおおむね価格転嫁できている」、②「人件費を含むコスト上昇のうち一部を価格転嫁できている」、③「人件費を含むコスト上昇をほとんど価格転嫁できていない」の3つである。これらの他、企業規模(従業者数)、産業分類などの企業特性を調査しているので、必要に応じてこれらをコントロール変数に用いる。

賃金上昇率の見通し

自社の賃金上昇率の要約統計は表1に示す通りである。中期的な賃金上昇率(年率換算)の平均値は+1.0%(中央値+0.8%)であり、平均的には中期的な賃金の上昇傾向が予想されている。構成比を見ると(図1参照)、中期的な賃金上昇を見込む企業79%、横ばいを見込む企業21%で、低下を見込む企業はない。

一方、中期的なCPI上昇率の予測値(年率)は平均4.2%(中央値3%)とかなり高い。このため、機械的に計算すると、中期的な実質賃金上昇率の見通し(年率)は▲3.2%(中央値は▲2%)とかなり大きなマイナスである。分布を見ると、中期的な実質賃金上昇を見込む企業25.8%、横ばいを見込む企業8.5%、低下を見込む企業65.7%となっている。例えば、「日銀短観」(2023年12月)の5年後の企業の物価全般の見通しの平均値は2.1%であり、この企業サーベイのCPIの予測値はかなり高めである。ただし、仮にCPI上昇率を2%程度としても、実質賃金の中期見通しの平均値は▲1%程度という計算になる。

なお、賃金上昇率の見通しを、自社売上高伸び率の見通し、CPI上昇率の予測値で説明する回帰を行うと、予想される通り自社売上高の期待成長率が高い企業、CPI上昇率の予測値が高い企業ほど、中期的に高い名目賃金引き上げを見込む傾向がある(表2参照)(注3)。

賃上げ方針・価格転嫁状況

今後の賃金引き上げの方針を集計した結果が図2である。「CPI上昇率以上の賃金引き上げ」4.8%、「CPI上昇率に見合った賃金引き上げ」45.6%、「CPI上昇率を下回る賃金引き上げ」41.8%、「賃金引き上げは難しい」7.8%という分布である。上で見た定量的な賃金見通しとの関係を見ると、CPI比での実質賃金を引き上げようとする方針が強い企業ほど、量的に高い賃金上昇率を見込む傾向があることが確認される(表3参照)。

人件費を含むコスト上昇の価格転嫁状況の集計結果は図3の通りである。「おおむね価格転嫁できている」17.4%、「一部を価格転嫁できている」59.3%、「価格転嫁できていない」23.3%という分布である(注4)。そして、コストを価格転嫁できている企業ほど、賃金を引き上げる方針を持っている傾向があり(図4参照)、また、賃金上昇率の見通しが高い傾向(表4参照)がある。

おわりに

以上をまとめると、①多くの企業は中期的にも名目賃金が上昇することを見込んでいるが、CPIを補正した実質賃金の引き上げという方針を採る企業、また、自社の実質賃金が中期的に上昇することを見込む企業は少ない。②価格転嫁状況と賃金引き上げの方針や賃金上昇率の見通しの間には正の相関関係がある。

もちろん、クロスセクション・データに基づく以上の観察事実は、何らかの因果関係を示すものではない。例えば、価格転嫁できている企業ほど賃上げの原資がある、高い賃上げを目指す企業ほど積極的に価格転嫁に取り組むという双方向の関係があり得るし、観測されない何らかの企業特性が両者の背後にある要因かもしれない。従って、価格転嫁が進むと賃金引き上げ率が高まるという因果的な解釈ができるわけではないことを留保しておきたい。また、当然のことながら、このサーベイに回答した企業のサンプルに基づく結果であることにも注意が必要である。

表1:賃金・売上高・物価の予測値
表1:賃金・売上高・物価の予測値
(注)サンプルの上下1%をwinsorize後の数字。5年間の賃金上昇率見通し(wage5_exp)、売上高増加率見通し(sale_5_exp)、CPI上昇率予測(cpi5_exp)、実質賃金上昇率見通し(real_wage5_exp)。下段は本年度の賃金(wage1_exp)、売上高(sale1_exp)の前年度比の見通し。
表2:売上高・物価の予測値と賃金上昇率の予測値
表2:売上高・物価の予測値と賃金上昇率の予測値
(注)OLS推計。***: p<0.01, **: p<0.05, *: p<0.10。被説明変数は5年後までの賃金上昇率の予測値(年率)。説明変数のうちlnempは常時従業者数の対数。
表3:賃上げの方針と賃金上昇率の予測値
表3:賃上げの方針と賃金上昇率の予測値
(注)OLS推計。***: p<0.01, **: p<0.05。被説明変数は5年後までの賃金上昇率の予測値(年率)、本年度の賃金上昇率の予測値。参照カテゴリーは「賃金引き上げは難しい」。
表4:価格転嫁の状況と賃金上昇率の予測値
表4:価格転嫁の状況と賃金上昇率の予測値
(注)OLS推計。***: p<0.01, **: p<0.05, *: p<0.10。被説明変数は5年後までの賃金上昇率の予測値(年率)、本年度の賃金上昇率の予測値。参照カテゴリーは「転嫁できていない」。
図1:中期的な賃金見通しの分布
図1:中期的な賃金見通しの分布
図2:今後の賃金引き上げの方針
図2:今後の賃金引き上げの方針
図3:コスト上昇の価格転嫁状況
図3:コスト上昇の価格転嫁状況
図4:価格転嫁状況と賃金引き上げ方針の関係
図4:価格転嫁状況と賃金引き上げ方針の関係
(注)OLS推計。***: p<0.01, **: p<0.05, *: p<0.10。被説明変数は5年後までの賃金上昇率の予測値(年率)、本年度の賃金上昇率の予測値。参照カテゴリーは「転嫁できていない」。
脚注
  1. ^ RIETIが株式会社東京商工リサーチに委託して行ったものである。この調査は科学研究費補助金(21H00720)の助成を受けて実施した。
  2. ^ 本年度(2023年度)(短期)のCPI上昇率の見通しは調査していない。
  3. ^ この調査で利用可能な売上高及びCPIの主観的不確実性(点予測値の90%信頼区間)を追加的な説明変数として推計すると、売上高やCPIの不確実性が高いほど賃金上昇率の予測値が低くなるという関係は観察されない。
  4. ^ 価格転嫁の度合い(おおむね転嫁=3、一部転嫁=2、転嫁できていない=1)を被説明変数とし、産業と企業規模(ln従業者数)で説明するシンプルな推計を行うと、企業企業の係数は負値で統計的に有意ではない。つまり大企業ほど価格転嫁できているという関係は観察されない。

2024年3月4日掲載

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