「年収の壁」問題:データに基づく丁寧な議論を

近藤 絢子
ファカルティフェロー

既婚女性が税や社会保険料負担を避けるために年収を一定以下に抑える「年収の壁」問題が注目を集めている。この問題自体はかなり前から指摘されていたが、最低賃金の引き上げや人手不足を受けての時給上昇によって、時給を上げるとかえって稼働時間が減る現象が改めて問題となっている。パートタイム労働者への社会保険の適用拡大とも相まって、政府が対策パッケージを打ち出すなど、政治的な関心も高い。

103万円の壁の謎

近藤・深井(2023)は、16の協力自治体の住民基本台帳と住民税の課税記録を接合し匿名化したデータを用いて、既婚女性の就労調整についての記述的な分析を行った。給与収入・各種所得と世帯構成の情報を含む個人レベルのパネルデータを用い、ライフイベントの前後の変化や夫の所得・就業形態による差など、さまざまな角度から分析を行った。

図は、近藤・深井(2023)で使用したデータで作成した有配偶女性の給与収入のヒストグラムである。縦の点線はそれぞれ、税制上の扶養家族から外れて所得税の課税対象となる103万円と、社会保険の扶養から外れて国民年金・国民健康保険への加入が必要となる130万円を示している。この2つが主な「年収の壁」であることがグラフから一目瞭然だ。

1万円刻みのグラフで103万円の少し手前に大きく飛び出ているのは96万円で、いくつかの自治体で住民税均等割がかかり始める閾値であることに加えて、100万や103万以下で最も大きい12の倍数だからと推測される。すべての自治体で住民税の均等割と所得割の両方が課税される100万円、所得税の課税対象である103万円と山が続き、103万を超えると急激に減る。

有配偶女性の給与収入分布

130万円は、厚生年金加入者(つまりサラリーマン)の配偶者が、国民年金の第3号被保険者や配偶者の健康保険の扶養家族となれる収入の上限である。130万円を超えてしまうと国民年金保険料と国民健康保険料を合わせて年間約30万円の負担が発生する。年収130万円に対する30万円であるからかなり大きな負担となる。

一方、103万円を超えると税制上の扶養家族から外れて所得税の課税対象となるのだが、税額の変化としては限界税率が5%上がるだけである。100万円を超えるとかかる個人住民税と合わせても、年間1万円弱であり、130万円の壁と比べると負担額の変化は小さい。にもかかわらず、103万円以下に調整する人が多い。

なぜこれほど多くの既婚女性が103万円以下に年収を抑えようとするのか。しばしば指摘されるのは、夫の勤め先から支給される配偶者手当の所得制限だ。しかし、年収103万円以下の配偶者にのみ手当を出す企業はここ10年で半減しており、これだけで説明できるとは思えない。税や社会保険の仕組みは複雑なので、実際の負担額を正確に理解せずに、なんとなく「103万の壁を超えたら損」という思い込みだけで就労調整が行われている面もあるかもしれない。

第3号被保険者問題と「103万円の壁」

最近の年収の壁に関する議論は社会保険料負担に関するものが圧倒的に多い。確かに、配偶者控除の改正を重ねた結果、税制上の不連続はかなり解消されてきた一方で、130万円を超えたときの社会保険料負担の増加についてはこれまであまりメスが入れられてこなかったので、これから制度を変えるなら社会保険、となるのは理解できる。

被用者保険が加入者本人だけでなく扶養配偶者までカバーするという社会保険上の仕組みがある限り、社会保険制度上の年収の壁はなくならない。第3号被保険者制度の是非についての議論が活発化しているが、筆者個人としても長期的には第3号被保険者制度は廃止し、健康保険についても扶養してくれる家族の有無によって差が出ない制度に変えていくべきだと考えている。

とはいえ、現実に制度を変えるのは大変だ。従来の社会保険制度に合わせて就労調整してきた人に対していきなりはしごを外すようなことにならないよう、時間をかけて段階的に変えていく必要があるだろう。

また、同時並行してパートタイム労働者への社会保険の適用拡大を進めていくことで、第3号被保険者自体を減らしていくことも摩擦の緩和になる。しかし、年収103万円以下に調整していると、パートタイム労働者への社会保険の適用基準となる月額88,000円(年収106万円相当)に届かない。この点が見過ごされがちなように思う。

「106万円の壁」などと言われているが、給与収入の分布を見ても106万円に不連続はない。社会保険の適用基準は賃金だけではないので、所定内労働時間を抑えることで調整している面もあるだろうが、そもそも「扶養の範囲」で働きたいという人の多くが103万円以下に年収を抑えているために106万円に届いていないという面もあるのではないだろうか。だとすれば、パートタイム労働者への社会保険の適用拡大が第3号被保険者を減らす効果は限定的かもしれない。

議論の基盤となる実態把握の大切さ

第3号被保険者の問題を考える上で、一見関係のない「103万円の壁」が実は、パートタイム労働者への社会保険の適用拡大の効果を限定的にしている可能性について考察した。すでに述べた通り、103万円を超えても実際の税負担の増加は大きくないにもかかわらず、扶養の範囲に年収を抑えようとする既婚女性の多くが103万円を閾値と考えている。

もう1つ、重要だがデータの制約からまだ実態が把握できてないように思うのが、実際に社会保険の適用拡大対象となる、年収106万円から130万円の範囲にいる人たちの実態だ。本人たちが、夫の扶養から外れて勤め先の社会保険に入ることについてポジティブにとらえているのかネガティブにとらえているのか。おそらくは、103万円以下に調整している人たちとはさまざまな面で異なるのではないだろうか。また、社会保険の適用拡大に直面した雇用主側はどう対応しているのかについての実態把握も必要だ。

第3号被保険者問題は性別役割分業の問題とも密接に関係する上、利害の対立もあり政治的に非常に難しい問題である。冷静な議論の基盤となる、客観的なデータに基づく実態把握を進めていくことが必要だ。

2023年12月4日掲載

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