エビデンスに基づく政策形成の実践に向けて

川口 大司
ファカルティフェロー

エビデンスに基づく政策形成への注目

今年に入りデータを用いた因果関係の推定をわかりやすく紹介する良書の出版が続き、エビデンスに基づく政策形成の重要性が多くのひとに知られることになった。経済学者や関連機関の地道な広報活動が実って、エビデンスに基づく政策形成の重要性が永田町や霞が関にも知られるようになり、少しずつではあるがそのプロセスを行政に取り入れようという機運が徐々に盛り上がってきた。

もちろんエビデンスに基づく政策形成が現場に根付くまでには数々の障害が予想される。何とか今の業務を改善しようと努力していて、新しいものとりあえず取り組んでみようとされている政策担当者の方もいる一方で、率直に言って、なんだかよくわからない新しい制度が導入されて仕事が増えて、さらに自分の仕事にケチをつけられるようで面白くないという反応の方もいることだろう。いずれにせよ、本質的に有用なアプローチであることには間違いなく、諸外国での取り組みも考え合わせると、長期的には皆が真剣に向き合わざるを得なくなってくる課題だといえる。

エビデンスに基づく政策形成とは

今後、エビデンスに基づく政策形成を現場に根付かせていくことを考える中で、参考になるレポートがある。この20年ほどでエビデンスに基づく政策形成が徐々に根付いてきたイギリスの事例を丁寧に紹介している経済産業省の委託調査である(三菱UFJリサーチアンドコンサルティング『エビデンスで変わる政策形成』)。このレポートによれば、エビデンスには2種類があるという。1つは現状を的確にとらえるもので、もう1つは政策の効果を因果関係の意味で推定するものである。

この2つの分類は納得のいく分類である。労働政策を例に取ってみても、賃金が上がっているのかどうか? という実をいうとかなり測定に困難を伴う問題があって、現状認識が政策に影響を与えている例がある。たとえばアベノミクスが賃金に与えた影響を調べようと2012年末からの賃金上昇を調べようとしても、賃金を実質化するのに使う物価指数は何が適切か、景気回復の途上で発生する労働者構成の変化にどのように対応するのか、といったテクニカルな問題が多数発生する。実質賃金を計算するためには物価指数を使う必要があるが消費財の物価指数にも複数のものがあってそれぞれが違う動きをしているものだから実質賃金の上がり方も異なってくる。また、2009年の金融危機後の景気回復の局面において、女性や高齢者の就業率は急激な上昇を続けている。すると平均賃金を計算するときに入って来る労働者が変容するため、もとより賃金が相対的に低い女性や高齢者が増えると、賃金の平均値が押し下げられてしまうという問題も発生する。通常、賃金が上がったかどうかという問いは同じ労働者の賃金がどの程度上がっているかという問いであるため、平均値を計算するにあたって労働者の構成が次々に代わってしまうのは困ったことである。これらのテクニカルな問題に新しいデータを作ったりして丁寧に対応していかないと、そもそも賃金が上がっているのかすら明らかではないのだ。賃金が上がらないことがアベノミクスのアキレス腱だとの指摘もあり、その認識は金融政策や賃金政策に少なからぬ影響を与えているといえようが、そもそもその現状認識が正しいかどうかわからないという危うい状況なのである。

エビデンスの2分類の後者に当たる政策の影響の因果推定であるが、その重要性を例を挙げて指摘することは容易である。たとえば、最低賃金が若年や女性の雇用に与える影響があげられる。最低賃金を上げて雇用を維持しながら賃金を上げることができれば、貧困世帯の所得を上げることができそうである。これに対しての経済学者の典型的な反論は、最低賃金を上昇させると、中小企業など賃金支払い能力が高くない企業は、労働者を雇い続けることができなくなり、技能の低い労働者を中心に雇用が失われてしまうというものである。この可能性を検証するためには最低賃金が上がった都道府県で雇用が減っているかどうかを見ればよさそうだが、そもそも地域の景気が良くて、小さな企業の平均賃金が上がると最低賃金が上がるという政策決定のメカニズムがある。そのため、雇用への影響が小さいと思われているからこそ、最低賃金が上がるという側面が現在の政策決定プロセスには入っている。提案されている政策は地域の労働市場の状況とは関係なく、生計費の水準に合わせて最低賃金を決めるとか、全国最低で1000円を目指すといった政策であるため、これら提案されている政策を実行したときに労働市場で何が起こるかを予測しようとすると、地域経済の動向とは関係なく、最低賃金を上げたときに何が起こるかを知る必要がある。実際には地域労働市場の動向を気にしながら政策決定が行われてきた中で生まれてきたデータから、この問いに対する答えを知るのは一見不可能に見えるくらい難しい。この一見回答不能な疑問に対する答えを特定の仮定の下で与えるのが計量経済学の各種のテクニックである。

導入に向けて

さて、エビデンスに二種類があることはわかった。また、因果推論の手法についても入門書を読んで勉強し、おおよそのところは理解したとしよう。ここである政策担当者が実証分析に基づく政策決定を実践していこうとしたとしよう。このときに政策担当者が陥ってはいけない誤りは、1つの研究結果を妄信してしまうことだ。現実を把握する場合でも、因果関係を把握する場合でも、分析には仮定が必要だ。たとえば、平均賃金の変化から個々の労働者の賃金変化の平均値を把握しようとする場合には、新しく参入した労働者がすでにいた労働者とは本質的な意味では異ならないという仮定が必要だ。あるいはたとえば、最低賃金の上昇が雇用に与える影響を、都道府県データから知ろうとすれば、最低賃金の高さと地域の労働市場の状況とは無関係に決まっているという仮定が必要になる。仮定を変えれば結果が変わるということもあるため、1つの研究結果を信じ切ってしまうことには問題がある。また、科学の世界は単なる多数決の世界ではないため、ある結果を出している研究が数多いからと言ってその結果が正しいとも限らない。

大切なのは、受け入れることができそうな常識的な仮定の下で得られた信頼性の高い結果に大きなウエイトをかけながら、どのようなことが研究者の世界ではおおよそのコンセンサスとして受け入れられているかを知ることである。しかし、そのためには、自分でもデータ分析を十分にできるくらい技能を持った人が時間をかけて多くの論文に当たっていくことが必要になる。これが研究者の書く文献サーベイである。つまりある政策についてどの程度の有効性があるのかについておおよそのコンセンサスを知ろうと思っても、研究者の手を借りずにこれを行うことは極めて難しい。また、研究者がほかの研究者向けに書いた文献サーベイはしばしばテクニカルすぎて政策担当者には理解が難しい。おそらく、これが政策担当者が実証分析に基づく政策決定を実行に移そうとする際に直面する問題である。

福音は、少なくとも労働政策に関しては、学界でのおおよそのコンセンサスを政策担当者向けに伝える電子出版物があることである。経済産業研究所も連携研究機関となっているドイツの労働問題研究所IZAが出している出版物であるIZA World of Labor (https://wol.iza.org/)である。このシリーズには各種の労働政策について、どのような研究がなされどのような結果が得られているかが簡潔にまとめられている。エレベーター・ピッチという忙しいエグゼクティブ向けにエレベーターの中で要点を伝えるような要約までついている。これは役に立つが残念なのが日本の政策については必ずしも十分に紹介されていないことである。外国の事例を学ぶことは日本の政策を評価するにあたって参考になることが多々あるが、国や時代が変われば分析の前提としている条件も変わるため、外国での研究結果が日本にそのまま当てはまると考えるのは危険だ。特に労働政策については歴史的な事情から各国ごとに労働市場の構造が異なるため、国の違いをしっかりと踏まえる必要がある。こんな時に役に立つだろう本が、このたび出版された川口大司編『日本の労働市場―経済学者の視点』(有斐閣)である。政策担当者と研究者の橋渡しを行ってきた統計研究会の設立70周年を記念して出版されたこの本には、さまざまな労働政策について、これまでどのような研究がなされてきて、どのようなことがわかってきたのかを各分野の第一人者がわかりやすい言葉でまとめている。霞が関・永田町近辺で広く読まれ、日本の労働政策分野での実証分析に基づく政策形成に貢献することを願ってやまない。

2017年11月16日掲載