東アジアにおける原子力発電の意味:日本の経験と今後の課題

相樂 希美
元上席研究員

7月2日、次期国際原子力機関(IAEA)事務局長選挙の投票が行われ、日本人の天野之弥氏が選出された。今年3月の投票では南ア出身の候補者との間で票が割れ再投票となったが、今回、天野氏は理事国35カ国の有効票の3分の2以上の支持を得て選出され、今後、IAEA総会での承認を経て、12月からエルバラダイ氏に続く第5代目のIAEA事務局長に就任する見通しとなった。事務局長選が難航した背景には、原子力の平和利用の促進と核不拡散の両立を巡り、IAEAが直面する課題の困難さと加盟国各国の主張の多様性がある。天野氏は初の東アジア出身のIAEA事務局長となるが、東アジアにおいても原子力の平和利用は益々重要な課題となって来ている。本稿では、東アジアにおける原子力発電の意味と今後の課題について、日本の経験を踏まえつつ考えてみたい。

エネルギー安全保障と地球温暖化対策における原子力発電の意味

「新エネか、原子力か?」という議論がある。私たちの毎日の生活や経済活動に必要な一次エネルギーのうち、日本が国内で調達できる「エネルギー自給率」は、原子力を除くとわずかに4%に過ぎない。地熱・太陽光・風力等の新エネルギーによる供給は0.6%であり、水力エネルギーによる供給1.4%の約半分弱である。この4%に原子力を含めても、漸く2割弱でしかない。つまり私たちは、エネルギー供給源の8割を、石油・石炭・天然ガス等化石燃料の海外からの輸入に頼っており、「エネルギー自給率の引き上げ」の観点からも、「二酸化炭素を排出しないエネルギー源の拡大」の観点からも、「新エネか、原子力か」の選択なのではなく、「新エネも、原子力も」大切にしなければならない状況にある(注1)

また、太陽光や風力等の新エネの導入拡大は、エネルギー供給源の多様化のため、最大限に取り組む必要があるが、エネルギーの取り出しの原理(換言すれば「エネルギー密度」)から考えると、余程の革新的な技術転換に恵まれない限り、新エネが化石燃料を全部置き換えた上に、原子力まで代替すると期待するのは合理的ではないように思われる。何故なら、身近な例で考えれば、原子炉1基(約100万kW)を太陽光発電で置き換えるのには、東京都の山手線の内側一杯の面積(約67k㎡)と約20倍の建設費がかかるのが現状であるからだ(注2)。従って、可能な場所で最大限の新エネの導入を図りつつ、ベースロード電源としての原子力と上手に組み合わせることで、日本のエネルギー自給率を高め、国際的な二酸化炭素排出抑制の取り組みにも貢献して行くというのが、最善の方法と考えられるのである。この「電源のベストミックス」という考え方は、多くの国民からも賛同を得ているのではないだろうか。

さて、エネルギーと技術を利用して貧困から解放され、安全で文化的な生活を追求したいとの願いは、日本のみならず世界の人々に共通のものである。特に、中国やASEAN諸国など、高い経済成長を遂げている国々を含む東アジア地域では、エネルギー需要が急速に伸びている。エネルギー供給の外部依存度が益々高まる東アジアにおいては、資源ナショナリズムの台頭や資源権益確保等にアグレッシブに取り組む国もあるが、エネルギーを巡り近隣諸国が競争・対立するよりも、共通の課題と捉え、ロシアやオーストラリア、インド等南アジアなどの関係の深い諸国も交え、東アジア地域の原子力利用も含めたエネルギーの安定供給と地球温暖化対策の在り方について、協力可能な未来図を確認し合う方が建設的ではないだろうか。

国際的な核不拡散・原子力安全の議論から日本の原子力政策が受けた影響

東アジア地域における原子力導入の歴史について、日本を中心に振り返ってみたい。東アジアでは、現在、日本で53基、韓国で20基、中国で11基、台湾で6基の原子炉が運転中であり、ベトナムが具体的な原子力発電所の導入計画を進めつつあり、インドネシア、タイなどが導入検討段階にある。日本で初めての商業用原子炉が運転を開始したのは1966年であり、アジアでは最も長い経験を有する。韓国と台湾が日本に続き、1978年に商業用原子炉の運転を開始している。戦前の日本の原子核研究は高い水準にあったと言われるが、大戦時の原子力研究施設の破壊や戦後の極東委員会による原子力研究の禁止などでのブランクがあり、1953年のアイゼンハワー米大統領の"Atoms for Peace"声明を契機として、漸く日本における原子力研究が息を吹き返すこととなった。しかし、戦後の日本の原子力平和利用の道程は必ずしも順風満帆という訳ではなかった。

1956年に発足した原子力委員会は、同年、最初の「原子力長期計画」をまとめており、日本の国情に最も適合する型式の原子炉として高速増殖炉の開発を行い、原子燃料製造および燃料要素の再処理の全てにわたり、国産化を目指すとの方針を示した。また、世界的な原子力平和利用を目指して、IAEAが1957年に発足したが、設立直後に、日本はIAEAからのウラン燃料供給を要請するなど、IAEAに掛ける期待は大きかった。一方で、急増する国内のエネルギー需要に対応するため、ウラン燃料とともに商業用原子炉を輸入することとなり、供給国である米国、英国との二国間原子力協定(注3)が1958年に締結されるなどした。

このうち、米国から導入された商業用原子炉である軽水炉は、燃料ウランに「濃縮工程」を必要とした。当時は、世界で軽水炉の建設が急増する一方、濃縮ウランの供給を米国のみに頼らざるを得ない状況であったことから、将来の供給能力不足が強く懸念され、日本や欧州の原子力利用国にとっては、1970年代に至るまで、濃縮ウラン製造能力の拡大や濃縮を必要としない国産新型転換炉の開発が重要な関心事であった。

原子力の平和利用が進展する一方で、1960年にはフランスが、1964年には中国が初の核実験を行い、米・ソ・英による核兵器の独占体制が崩れ、1970年には核不拡散条約(NPT条約)が発効する。さらに、1974年にインドが核実験を実施したことにより、原子力供給国グループ(NSG)が核関連資機材・技術の厳格な輸出管理を開始するとともに、1977年に発足した米国のカーター民主党政権は、商業用再処理施設の凍結とプルトニウム利用抑制のための高速炉開発延期等を打ち出し、1978年には輸出管理と核燃料供給の厳格化等を内容とする「核不拡散法」を定めた。この時期、日本の動力炉・核燃料開発事業団の東海再処理工場が運転開始直前であり、日米原子力協定に基づく米国の承認を得るための交渉が、両国首脳レベルまで巻き込んで非常に難航したことは有名な話である。また同時期、IAEAの場において国際核燃料サイクル評価(INFCE)の検討が行われることになり、「核不拡散と原子力の平和利用」の在り方について46カ国・5国際機関の専門家により2年4カ月にわたる討議の末、2万頁を超える文書が作成された。1980年、INFCEでは、保障措置の改良と、国際制度の整備、核不拡散に有効な技術的代替手段の確立等により、核不拡散と原子力の平和利用は両立し得るとの結論を得た。日本は、INFCEでの議論に貢献するとともに、「TASTEX」(1978-1981)、「Hexapartite Safeguards Project」(1979-1981)、「JASPAS」(1981-継続中)、「LASCAR」(1988-1992)(注4)等の保障措置技術支援計画を国際共同研究として実施し、保障措置による平和利用担保の実例を示そうとした。

国内では、1970年代末までには、原子炉製造技術の国産化と核燃料サイクル技術の構築がほぼ完了しつつあり、1980年代には国産軽水炉の改良・高度化と核燃料サイクルの民間事業化が進められた。1985年には、青森県と六ヶ所村が、核燃料サイクル施設や低レベル放射性廃棄物最終貯蔵施設に関し、電気事業連合会による立地要請を正式に受諾するなど、重要な進展があった。また、米国との関係でも、日本の原子力計画に対し米国が事前かつ包括的に合意することを可能にする「新日米原子力協定」の交渉が進むなど、1970年代の2度のオイルショックを経て、エネルギー源としての重要性が高まっていた原子力発電を円滑に定着させるための着実な進展が図られた。しかしながら、1979年の米国スリーマイルアイランド事故に続き、1986年、ソ連のチェルノブイリ原子力発電所が未曾有の大事故を引き起こし、原子力発電に対する信頼は一気に揺らぐことになる。

1990年代は「原子力冬の時代」と呼ばれる。海外での深刻な事故により原子力に厳しい目が向けられる中、日本の安全神話すらも崩れることになるのである。また、日本の構造改革の一環として電気事業規制改革や行政改革も同時期に進行し、1997年には1967年以来続けられてきた国産新型転換炉の開発導入計画が中止されるなど、原子力政策における官民の方向性の違いが明らかになるなどした。一方で、1995年には、前年に臨界に達したばかりの高速増殖原型炉「もんじゅ」が二次冷却系配管におけるナトリウム漏れ事故を起こし、1997年には動燃事業団東海再処理施設のアスファルト固化施設火災爆発事故、1999年にはウラン燃料加工会社JCOにおいて日本中を震撼させる臨界事故が起きた。これらの国内事故を受け、2001年の省庁再編時には、政府の原子力管理体制も刷新されることとなった。そして2000年代に入り、日本の原子力政策は、地球温暖化対策や深刻化するエネルギー安全保障、テロとの闘い等の国際環境の新たな変化の波に晒されることになるのである。

東アジアを含む国際社会における日本の原子力平和利用に関する貢献

日本は、東アジアを含む国際社会で、原子力の平和利用について、どのような役割を果たそうとして来たのであろうか。1963年、日本政府の主催により地域協力に関する初の試みとして「原子力平和利用促進のためのアジア・太平洋諸国会議」が開催され、各国共通の問題として、人員・資材器具設備・情報の不足が指摘され、共同研究等の共同事業や地域機構(「アジアトム」「パシアトム」)又はIAEA の地域事務所設置といった機構の問題が討議されるなどした。未だ発電分野は原子力協力の議論の中心ではなかったが、この頃には既にアジア諸国への日本からの専門家派遣等の貢献が始まっていた。IAEAの下で締結された原子力地域協力協定(RCA)にも1978年に加入し、アジア太平洋地域の原子力科学技術分野の協力で先導的な役割を果たした。1975年にIAEAで開始された原子力安全基準策定事業「NUSS計画」やOECD原子力機関(NEA)における活動等、原子力の安全規制の面においても、日本が果たしてきた役割は大きい。

さらに、1980年代半ばに始まった中国の初の民生用原子力発電所の建設に際しても、「日中原子力協定」を1986年に締結し、資機材・技術の供給やその後の運転管理に至るまで、積極的な協力を行ってきた。この頃にはアジアの他の諸国も原子力利用に一段と積極的な姿勢を見せ、日本の貢献に期待が高まっていたことから、原子力委員会が1984年に「開発途上国協力問題懇談会報告書」を、総合エネルギー調査会原子力部会が1986年に「原子力発電分野における発展途上国協力の在り方報告書」を公表するなど、日本の原子力分野における途上国支援が明確に打ち出されるようになって行った。

1990年代以降も、核不拡散と平和利用の両方の観点から、日本は原子力分野での具体的な国際貢献を実施して来ているが、国内では十分に認識されていないのではないかと懸念される。1991年のソ連の崩壊は、チェルノブイリ事故以降、安全性に疑問が呈されていたソ連の原子力発電施設への不安に拍車を掛けることになった。1992年のミュンヘン・サミットにおいてこの問題が取り上げられて以来、主要国首脳会議での主要課題となり、1996年には「原子力安全モスクワ・サミット」が開催され、旧ソ連、中・東欧諸国への協力が強化された。日本は、原子力安全分野においては、欧州復興開発銀行(EBRD)の原子力安全基金への拠出や、IAEA、OECD/NEAを通じた支援、二国間での「原子力発電所運転管理等国際研修(いわゆる「1000人研修」)」等の人材育成支援に加え、ロシアの海洋投棄に対処するため、低レベル放射性廃棄物管理のための洋上浮体構造処理施設「すずらん」の建設等の支援を行った。また、核不拡散の観点からは、旧ソ連の科学者・技術者が核拡散懸念国に流出することを防止するために、米国、EU、カナダと協力して1992年にモスクワに「国際科学技術センター(ISTC)」を設立するなどした。旧ソ連邦のベラルーシ、ウクライナ、カザフスタン等へはIAEA保障措置の実施に不可欠な計量管理技術支援などの協力を行った。なお、ソ連の崩壊と相前後して、米ソ(露)間では、START-I、START-II交渉により核弾頭削減が合意され、第一義的な義務は当事国が負うべきものではあるが、廃棄核兵器から取り出される核分裂性物質の貯蔵施設に関する協力や、高速炉でのプルトニウム燃焼処分等の技術支援、退役原子力潜水艦解体事業(「希望の星」)の実施など、日本も多岐にわたる国際協力を行って来たのである。

また、北朝鮮の核開発疑惑が浮上したことを契機に米朝協議が行われ、1994年の「米朝枠組合意」に基づき、米国、韓国、日本が中心となり、北朝鮮への軽水炉援助のための「朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)」を設立し、人的・財政的支援を行うなどした。

一方、東アジア諸国との間では、近隣アジア諸国9カ国の原子力担当閣僚等の政策対話を行う場として、「アジア地域原子力協力国際会議」を1990年から主催し、2000年以降も「アジア原子力協力フォーラム(FNCA)」に形を変えて継続している。1996年、1997年には、原子力安全モスクワ・サミットにおける橋本総理の提唱を受け、「アジア原子力安全会議」を東京とソウルで開催した。また、1994年には中国の原子力発電所が営業運転を開始し、インドネシアの原子力発電計画の事前評価を日本企業が請け負うなどの動きもあり、1995年には、原子力部会が「近隣アジア地域における原子力安全確保を目指した国際協調の下での多面的対策」と題する報告書を取りまとめ、1998年には、原子力委員会の原子力国際協力専門部会が「原子力国際協力の在り方及び方策について-新たな展開に向けて-」と題する報告書をとりまとめた。これらの方針を受け、二国間協力での原子力安全確保等に向けた人材育成支援策等が充実するとともに、1997年からは、IAEAにおいて日本が追加的な資金拠出を行い、「アジア地域における原子力安全支援のための特別拠出金事業(EBP-Asia)」が開始され、2002年には新たに「アジア原子力安全ネットワーク(ANSN)」として、原子力安全知識・経験の蓄積・分析・共有を目的とした活動を開始している。

2005年には原子力政策大綱が、2006年にはこれを受けた総合資源エネルギー調査会原子力部会の「原子力立国計画」が取りまとめられ、国際協力についても、積極的に取り組むことが改めて確認されている(注5)。このように日本は、地域の原子力安全性確保のための基盤作りに、地道な貢献を続けて来ているのである。

近年の原子力ルネサンスと核不拡散体制におけるパラダイムシフト

チェルノブイリ事故以降、被害の大きかった欧州では、原子力発電が政治の争点となるケースが相次ぎ、オーストリア、イタリア、スウェーデン、ドイツ等で原子力発電からの撤退や計画の大幅な後退などが見られた。欧州は、1980年代から供給を開始した北海油田を域内に抱え、1993年に発足した欧州連合(EU)においてはエネルギーを含めた域内の単一市場化が進展したため、国境を跨ぐ電力調達も容易になるなどの変化が背景にあった。また、フランスを中心とした原子力産業の集約化も進展した。しかしながら、原子力発電を廃止した場合の代替電源の見通しが立たないことや、京都議定書の締結による二酸化炭素排出抑制に関する国際約束遵守の必要性などから、21世紀に入り、欧州でも原子力発電を見直す動きが広がっている。

また、カリフォルニアの大停電などの電力危機を経験した米国においても、2001年に発足したブッシュ共和党政権の下で、明確な原子力政策の転換が図られた。同年発表された「国家エネルギー政策」においては、エネルギー安全保障と温室効果ガス削減の観点から原子力を推進する姿勢を示し、米国エネルギー省は2010年までに新たな原子力発電所の建設・運転を目標とした「原子力2010計画」を開始した。2005年には「包括エネルギー法」が成立し、新規原子力発電所の建設再開や次世代原子炉の開発に関する支援が盛り込まれた。2006年には「国際原子力エネルギー・パートナーシップ(GNEP)構想」が発表され、米国は、これまでの使用済燃料の一律直接処分の方針を転換し、放射性廃棄物の減量と核拡散抵抗性に優れた先進的再処理技術開発に取り組むとともに、回収されたプルトニウム等を燃料として使用するための高速炉の開発を推進することが打ち出された。日米間でも、2007年に合意された「日米原子力エネルギー共同行動計画」の下での協力が進展している。

これらの動きは、2001年に米国で起こった同時多発テロを契機とした世界のテロとの闘いや核保有を指向する国の増加懸念といった問題と、相互に影響を与え合う。2008年に米国とインドは二国間原子力協定を締結した。米国国内法で要件とされたIAEAとインドの間での保障措置協定の締結と、NSGによるインド例外化のコンセンサス承認が得られたからだ。インドは、NPTを不平等条約であると主張して現在も加入しておらず、1974年と1998年に核実験を実施し、国際社会に波紋を投げかけてきた。一方で、インドの民主主義体制と対テロへの取り組みを評価する国際社会の動きもあり、日本にとっても長い間にわたる友好国として、両国の関係は近年一段と緊密化しつつある。また、米国のGNEP構想では、NPT体制における「5つの核兵器国」と「非核兵器国」という区分とは異なり、日本を含む「核燃料サイクル国」と「核燃料サイクルを持たない原子力発電国」という枠組みの下に議論が進められている。IAEAにおいても、2003年にエルバラダイ事務局長がEconomist誌に"Towards a Safer World"と題する寄稿を行い、ウラン濃縮・再処理等の活動を多国間管理の下に置く「核燃料サイクルへのマルチラテラル・アプローチ(MNA)」を提唱して以来、国際専門家グループによるMNA報告書のとりまとめや各国提案を受けての議論が行われている。この中で、2006年にロシアは「核燃料サイクル・サービス提供のための国際センター設立構想」を提案し、2007年にはカザフスタンとの政府間協定に調印するなど、着々と歩を進めている(注6)。核燃料サイクルを持たない国々の間では、現在の供給国の独占体制の維持を意図するものだとの懐疑的な見方もある。このように、原子力利用が進む国際社会の中で、核燃料供給とバックエンドも含めた原子力発電全般の国際管理の在り方と、実効的な核不拡散体制の在り方という、IAEA憲章採択以来の問題が、改めて議論のテーブルの上に回帰して来ているのである。

終わりに

2009年に就任したオバマ米国大統領は、プラハ演説(注7)において、核兵器のない世界を目指すという、歴代の米国大統領が言及し得なかった画期的な目標を掲げた。具体的な道筋として、逸脱者が制裁を受けるようなNPT体制の強化、そして、頓挫していた米国による「包括的核実験禁止条約(CTBT)」の批准と、「兵器用核分裂性物質生産禁止条約(FMCT)」の締結(注8)に努力するとした。さらに、原子力エネルギーの平和利用は、核兵器を放棄する全ての国、特に原子力の平和利用計画に着手しつつある開発途上国の権利であるとして、国際燃料バンクなどの、核拡散の危険を高めることなく原子力の平和利用を可能とする、新たな協力枠組を構築すべきだと述べた。原子力技術は、軍事利用こそが厳しく律されるべきものであり、真の平和利用は社会に役立てて行かれるべきものの筈である。米国のみならず、核兵器廃絶への取組が関係国間で進展することにより、原子力の真の平和利用が妨げられることなしに、核兵器の脅威から自由な世界がもたらされることを願う。

そして、原子力の平和利用が見直されている今だからこそ、旧世紀の甚大な影響を及ぼした事故の教訓を風化させない努力が必要なのである。天然資源に乏しい日本がこれからも「技術立国」として繁栄を続けて行くためには、技術に対する正確な知識の普及と、技術を適切に取扱い発展させて行くことの出来る次世代の育成は重要な課題である。さまざまな原子力の現場で働く人々が士気高く職務に取り組むためにも、原子力への正当な評価と厳格な安全文化の追求・実現、そして徹底した情報公開が不可欠である。

エネルギー問題と地球温暖化問題は、東アジア地域の重要な共通課題である。原子力発電の利用はその有用な選択肢の1つとなる可能性がある。地理的状況・資源賦存状況・政治的安定性・経済規模・技術水準等、それぞれの国が置かれる状況により、エネルギー供給におけるベストミックスの内容は異なるだろう。これらを正しく理解し、日本がこれまでの蓄積を活かした国際貢献を継続して行くことにより、東アジア地域の人々がよりよい隣国関係を育みつつ、共に平和で豊かな生活を実現して行くことは、日本に暮らす多くの人々の願いなのではないだろうか。

2009年7月7日
脚注

注)本コラムは、RIETIにおける研究プロジェクト「東アジアにおける原子力発電導入計画の進展と安全性確保に向けた国際協力の現状と課題」の成果に基づくものである。ポリシー・ディスカッション・ペーパーを近く公表予定であり、そちらも参照されたい。

  • 注1)エネルギー自給率の数字については、「平成20年度エネルギー白書」(2009年5月)に記載される、国際エネルギー機関(IEA)の"Energy Balances of OECD Countries 2005-2006"を基にした推計による。
  • 注2)エネルギー密度の比較の数字は、総合資源エネルギー調査会電気事業分科会原子力部会報告書「原子力立国計画」(2006年8月)による。
  • 注3)日本に最初に導入された商業用原子炉は、英国のコールダーホール改良型原子炉(天然ウラン黒鉛減速炭酸ガス冷却炉)であったが、これ以外は全て米国由来の軽水炉である。なお、1959年には天然ウランの供給を受けるために、カナダと二国間原子力協定を締結した。
  • 注4)TASTEX:Tokai Advanced Safeguards Technology Exercise(東海再処理施設対象)、Hexapartite Safeguards Project(遠心分離法濃縮施設保障措置技術開発国際協力プロジェクト)、JASPAS:Japan Support Programme for Agency Safeguards(対IAEA保障措置技術支援協力計画)、LASCAR:Large Scale Reprocessing Plant Safeguards(大型再処理施設保障措置プロジェクト)。
  • 注5)引き続き、2008年12月には、総合資源エネルギー調査会原子力安全・保安部会原子力安全基盤小委員会国際原子力安全ワーキンググループが報告書をとりまとめ、2009年4月には、同調査会電気事業分科会原子力部会国際戦略検討小委員会も報告書をとりまとめ、日本の原子力政策の国際面での基本方針の明確化を図っている。
  • 注6)2009年5月、ロシアのプーチン首相訪日時に、日露原子二国間協定が署名された。また、核燃料供給構想において、米国とロシアは協力関係にある。
  • 注7)http://www.whitehouse.gov/the_press_office/Remarks-By-President-Barack-Obama-In-Prague-As-Delivered/
  • 注8)CTBTとFMCTの議論は、前民主党政権であるクリントン大統領の下で、NPT無期限延長の議論と並行して進められていたものである。オバマ大統領のプラハ演説を受け、FMCTの交渉開始が5月末にジュネーブ軍縮会議において合意された。FMCT条約は、NPT体制の内外を問わず、核兵器国の核能力を凍結するため、爆発装置の研究・製造・使用のための高濃縮ウランおよびプルトニウム等の生産禁止などを盛り込むことを構想している。

2009年7月7日掲載