日本のためにならない「元高」

関志雄
上席研究員

最近、躍進の目覚しい中国がグローバル・デフレの元凶とされて、日本を始めとする諸外国から人民元切り上げを求める声が高まっている。しかし、中国と日本の経済関係が競合的というより補完的であることを考えれば、人民元の切り上げは日本にとって、製品に対する需要の増大というプラスの面より、生産コストの上昇を通じた企業収益と産出の減少というマイナスの面の影響が大きいと見られる。

中国発の良いデフレと悪いデフレ

人民元の切り上げを求める諸外国の中でも、日本は特に積極的である。日本政府の人民元問題に関する考え方は、2002年12月2日付の英フィナンシャルタイムスに当時の黒田東彦財務官と河合正弘副財務官が連名で発表した「世界はリフレーション政策に転ずるべき時」と題する論文から読み取ることができる。両氏は、中国などアジアの新興市場地域の世界的貿易システムへの参入は、先進地域に強いデフレ圧力をかけているとし、グローバルなデフレ問題を解消するために、日米欧の政策協調に加え、中国の一層の金融緩和と人民元の切り上げという形での協力が必要であると主張している。

しかし、日本のデフレに中国要因が大きく寄与しているとは考えにくい。2002年、日本の対中輸入は日本のGDPのわずか1.5%程度に留まり、また、両国の貿易面における競合度が極めて低いことを考えると、中国発デフレの日本の物価への直接的または(国際競争を通じた)間接的な影響はともに限定的である。その上、中国のインフレ率(正確にいえばデフレ率)は日本とほぼ同水準になっており、中国が日本のデフレの原因であるというなら、逆に日本がまた中国のデフレの原因であるともいえる。

百歩譲って、中国発のデフレが、日本のデフレに拍車をかけているとしても、日本にとって本当に困るものなのだろうか。この疑問を解くために、中国製品が安くなることが、日本にとって生産規模の拡大を伴う「良いデフレ」なのか、それとも生産の縮小をもたらす「悪いデフレ」なのかを区別して考える必要がある。

日本の新聞などが多く取り上げているのは、いうまでもなく「悪いデフレ」のケースである。すなわち、中国の輸出価格が安くなれば日本国内はもちろんのこと、第三国の市場においても日本の輸出が中国の製品に代替されることを想定している。これは物価への影響という意味でのデフレであり、日本の生産に対してもやはりマイナスの影響を与えることになる。

しかし、中国発デフレの中には「良いデフレ」という側面も考えられる。もし日本企業が中国からさまざまな部品や中間財を輸入している場合、中国からの輸入価格が安くなることは生産コストが下がることを意味し、結果的に物価にはマイナスであっても生産にはむしろプラスであることも考えられる。

「悪いデフレ」と「良いデフレ」の効果のうち、どちらが大きいかを考える場合、日中の経済関係が競合的であると見るか、補完的と見るかによって結論が異なってくる。日中が競合的と見た場合は、需要側の効果が大きくなり、マイナスの影響が大きいということになる。日中が補完的であると見た場合、供給側の効果が大きいため、生産に与えるプラスの影響の方が大きくなる。実際に日本と中国の輸出構造を見てみると、前者は付加価値の高いハイテク製品、後者は付加価値の低いローテク製品が中心になっている。つまり両国経済は互いに競合している部分が実は少なく、補完関係にあるため、需要要因よりも供給要因のほうが大きく、生産者にとって中国発のデフレはむしろ生産の拡大をもたらす「良いデフレ」に当たるといえるわけである。

なお、以上の分析はあくまでも日本企業の立場に立った話であり、消費者にとって、デフレの善し悪しを区別する必要はない。国民全体にとって、石油価格の低下と同様、中国製品の輸入価格の低下は、交易条件の改善、ひいては実質所得の上昇を意味する。

幻想に過ぎない「元高」による日本への景気浮上効果

これに対して、人民元の切り上げは、中国経済の減速という「所得効果」と、世界市場における中国製品の価格高騰という「価格効果」を通じて、日本経済にマイナスの影響を与えると考えられる。

まず、所得効果について考えてみよう。人民元が強くなれば、中国製品の国際市場における競争力が低下し、輸出を中心に中国経済が減速するだろう。中国は加工貿易のウエイトが高いため、これを受けて、日本の対中輸出も鈍化せざるを得ない。中国への輸出依存度が高まっている日本は、機械産業を中心にその打撃を受けるだろう。

次に、価格効果に目を転じてみよう。中国の輸出価格の上昇は、日本の各産業の投入価格と産出価格に同時に上昇圧力をかけるが、どちらへの影響が大きいかによって、各業種間の明暗が分かれる。一般的に、中国と産出の面において競合している業種では、産出価格への影響が強く、利潤と生産がともに増えることになる。つまり、人民元の切り上げの恩恵を受けるのは、日本がもはや比較優位を持たない労働集約型産業に限られる。これに対して、投入の面において中国と補完関係にある業種では、産出価格よりも投入価格の上昇幅が大きく、利潤と産出が低下することになる。個別の日本企業の立場に立つと、自社の製品が国内外の市場において中国と競合関係にある企業にとって、人民元の切り上げは自らの競争力の向上を意味するが、中国から中間財を調達する企業は、生産コストの上昇を通じてマイナスの影響を受けることになる。

価格効果を中心に「元高」の日本の産業全体への影響を考えると、中国と競合する業種のウエイトが高ければ、(需要曲線の右へのシフトにより)生産が増大するが、実際には、中国と補完する業種のウエイトが高いため、むしろ(供給曲線の左へのシフトにより)生産が減少する効果が大きい。前述したマイナスの所得効果(需要曲線の左へのシフト)を合わせて考えれば、全体的に見た場合、日本の産業にとっては、人民元切り上げのプラスの影響より、そのマイナスの影響のほうが大きいと見られる。一方、日本の消費者にとっては、中国製品が高くなることは、実質所得の低下を意味する。

図 人民元の切り上げが日本経済にもたらす影響

このように、日本におけるデフレの原因を中国に求める診断書も、その解決策を人民元の切り上げに求める処方箋も間違っているといわざるを得ない。デフレの真因が構造改革の遅れとそれに伴う国内の景気の低迷にある以上、これらの問題が解決されなければ、いくら人民元が強くなっても、日本経済の本格的な景気回復はありえないことは明らかである。

2003年7月29日

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2003年7月29日掲載